明治三十八年九月五日、日比谷公園の講和条約反対国民大会に集まった民衆は政府系新聞社・警察署・交番・内務大臣官邸などを襲撃し、さらに電車を焼打ちする、日比谷焼打事件を起した。民衆が暴動化した原因は、戦費のための増税、物価騰貴に対する不満、それに日露戦争で払った犠牲の大きさにくらべて、条約内容が不満だったからでもあった。暴動は七日まで続き、六日には東京市と荏原・豊多摩・北豊島・南足立・南葛飾五郡に戒厳令を施行し、ようやく民衆を鎮めることができた。品川・大崎には検問所が設けられた。この事件で民衆に五六〇人、警察・消防・軍隊に五〇二人の死傷者が出た。品川警察管内でも各々四人の死傷者があった。また検問所で検挙されたものの数は全部で五万九〇〇〇人にのぼった。検挙され、予審をうけたものは都市の雑業層(人足・車夫・雇人など)・職人・職工が多かった。彼らの多くは農村で土地を失ない、やむをえず東京にやってきた人びとや都市で商売をやっていたが失敗して転落した人びとなど近代化・資本主義化によって生活不安に脅かされている階層だった。
他方、中等学校以上の教育もしだいに普及し、とくに都市には教師・技術者・弁護士・新聞雑誌者などの新中間層もふえ、新しい一つの社会層を形成してきた。また、経済的には労働層と同じ水準だったが意識の面では、小ブルジョア的傾向をもつサラリーマン層の大量出現ともあいまって自由主義的風潮がひろまり、藩閥・軍閥の支配を批判する声が高まっていた。
不安定な民衆と自由主義的潮流が結びついたとき、日比谷暴動をはじめ大正七年の米騒動にいたるまで、ことあるごとに集会を開きときには暴動をもってたちあがる傾向を譲成していった。
大正元年から二年にかけての大正政変・第一次護憲運動が起こったし、シーメンス事件で山本権兵衛内閣がつぶれるなども、民衆がひとつの社会的勢力として登場してきたことを物語っていた。たとえば、現品川区地域でも大正元年十月、品川御殿山に隣接する海軍用水地問題が起こった。もともと艦船に水を供給する目的だったが、余水は品川本宿・南品川一~三丁目、猟師町・利田新地など一万五〇〇〇の町民に利用されてきた。ところが海軍はこれを内務省に移管した。品川町当局は町会を開いて東京府に払下げ申請をしたが、そのうちに鉄道院によって老松を伐採し、その土を品川埋立地に使うことがきめられた。水が凅れる恐れがあるとみた町民は生死にかかわるとして、東京府・内務省・鉄道院に老松伐採の禁止を要求した。いずれも冷淡な態度であったので、町民は尋常の手段では目的を達成できないとして、十四日北馬場の娯楽館で町民大会を開いた。議会への請願などのねばり強い活動によって、ついに町民の要求がうけいれられた。また、国家財政のゆきづまりから軍費の削減を断行しようとした西園寺内閣は陸軍の非協力のため倒れ、桂内閣が登場した。長州官僚閥内閣であったため、民衆は「閥族打破・憲政擁護」のスローガンをかかげて、議会を包囲し、ついに桂内閣を辞職に追いこんだ。品川でも大正二年二月一日、閥族打破・憲政擁護の荏原郡民大会が清華園で開催された。郡民一、五〇〇余名が参加し、高不正年・漆昌巌両代議士・府会議会・各町村長も出席し、桂内閣の非立憲性・藩閥官僚・軍部の横暴を激しく攻撃した。
翌大正三年一月以降、商工業者を中心に営業税・織物消費税・通行税の三悪税廃止運動がくりひろげられた。二月六日荏原郡民大会が開かれ、一、八〇〇余名参加のもとに、営業廃止さえも決議し、悪税に反対しない代議士は次の選挙で再選させないことを誓った。この一連の民衆運動の最大の爆発が大正七年の米騒動であった。戦争による物価騰貴、とくにシベリヤ出兵をあてこんで米穀商の米買占めによって米価は一躍騰貴した。七月富山県ではじまった騒動はほぼ全国に拡がり、東京でも八月十二日、十三日から十七日頃まで暴動が起こった。現品川区域内では暴力の発生事件こそみられなかったが市内の暴動に参加したものも少なくなかったといわれる。品川町・大崎町の住民三名が騒擾卒先助勢の罪に問われ、徴役八カ月、四カ月(執行猶予三年)の判決を受けた者もあった。