労働争議

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 友愛会組織の拡張と第一次大戦後の恐慌・不況によって、労働争議がしきりに起った。全国的には大正八年が第二次大戦前では最も争議が多かった年であるが、品川区地域では大正八年もかなり多いが(一〇件)、もっとも多いのは、大正十三年であった(一九件)。労働者の要求内容も好況時の大正八年頃には賃金値上げ・労働時間短縮・八時間労働などが多かったが、大正九年恐慌以降は解雇手当増額・復職・賃金切下げ反対などへと焦点が移っていった。

 大正八年から十三年にかけて大崎町の園池製作所で世間の注目を集める争議が四たびにわたって起った。園池の労働者は友愛会の東京鉄工組合(一九一八年十月、結成された職業別組合、ただし、すでに一面では鉄工だけでなく金属に働く他の職種の労働者も加盟していたので産業別組合の性格ももっていたとみられる。)に所属していたばかりでなく、地域・産業からみても労働組合勢力の一拠点となっていった。園池製作所は当時営業不振に陥っていたが、会社の一役員が賃上げどころか馘首がでないのを有難く思えという話に反発して、賃上げ、日曜日休日などの十二項目にわたる要求を会社に提出した。三日後会社側は要求を全面的に承認した。この労働者の勝利は「戦はずして勝てる東京鉄工組合」と高く評価され友愛会機関誌『産業及労働』(一九一九年九月号)に紹介された。この要求獲得あたりから組合員もふえはじめ、園池に関しては「オール組織」、全職工が加盟するに至った。園池の労資(労働者と資本家)がこのままでおさまるわけはなかった。労働者側もそれを察知してか、一方で「労働問題早わかり」「工場法釈議」などのパンフレットを売って資金を貯え、宣伝活動すると同時に、内部の結束を固めるための講演会、研究会を重ねた(『労働』大正八年七月号)。当時『東京毎日新聞』の記者として加藤勘十が取材し、それを記事にした「労働者の力」が政府によって発売禁止になるという一幕もあった。翌九年正月早々、十八日間にわたるストライキに入った。要求は組長・伍長などの職制を各職場の労働者が選挙で候補者を三名えらび、その中から会社が一名を任命するという方式であり、当時彼らはこれを「産業民主」の要求とよんだ。会社は工場閉鎖・全員解雇を通告した。組合は百間坂上の園池クラブに籠城し、第一・第二・第三の交渉委員(これは検挙にそなえての布陣とみられる)、書記、警備員、会計、伝令、出席係兼応接係、場内整理、炊事、食糧、衛生係、調査委員、娯楽係などの部署をきめ、長期争議に備えた。たまたま流行性感冒がはやったので争議団はマスクを製造し、販売した。争議中の内職で闘争資金をつくった最初の事例として注目された。一月二十三日大崎町五反田クラブ、二十四日友愛会本部、二十五日新大崎館で、争議支援の演説会、労働者大会が開催された。参加者は、「三晩とも立錐の余地無き程の満員で……臨検の警官は総て片隅に圧迫されて、身動きもならぬやうな奇観を呈した」ほどだった。またこれらの演説会の前にデモンストレーションも行われたし、明電舎・日本電気・日本精工などの周辺の労働者からカンパが寄せられた。この秩序だった労働攻勢に資本側は遂に屈し、一応解雇を取消として、八時間労働制、賃金一割増、工場委員会を労資双方でつくる、長(職制)は会社側が五名の候補者を選んで、その中から投票できめるなど労働側の勝利で終わった。しかし組合幹部九人は解雇された。翌十年三度び争議が起こった。品川警察署が指導者五人を拘引検挙した上に刑事立会いで五十二名に解雇の辞令を渡そうとしたのに対して、労働者はストライキに入った。さらに三人の指導者が検挙された。これらの弾圧は労働者の怒りの火に油をそそぐ結果となり、「工場を占領して、職工の力で工場を管理する事を決議」が行われるに至った。当時のサンジカリズムの人々の主張でもあった。しかし、警官に阻まれて生産管理闘争は実現できずに終った。大正十三年八月にも解雇手当を要求する争議が起こった。そのほかの工場でも各種の労働争議が第17表に示すように、かなり起った。

第17表 第一次大戦後現品川区域の労働争議
年月 企業名 争議主体 年月 企業名 争議主体
大正7.8.4 松尾鉄工所 鉄工 160人 大正13.4.9~20 御園クリーム製作所 職工 30人
大正8.1.11 理化学工業(株) 職工 50人     5.3 日本精工(株) 機械工 2人
    7.19 日本光学工業(株) 160人     5.2~5 双葉製作所 職工 10人
    7.26 日本製鋼所 1000人   〃 日本染色(株) 染工 2人
  〃 東京電気ケ-ス製作所 300人     5.16~19 品川製作所 400人
    7.27~30 園池製作所     8.12~9.4 大和製作所 職工 全71人
    7.27 明治電気(株) 500人     8.23~29 園池製作所 機械工 10人
    8.3~5 日本特殊鋼(合資) 90人     8.25~9.8 明治電気(株) 41人
    8.6 明治電気(株)     8.30~9.12 本城鉄工所 鉄工 60人
 〃 山本鉄工所 70人     9.6~9 岡部電気製作所 15人
    8.7 高砂鉄工所     9.8~15 東京衡器製作所 職工 70人
大正9.1.8~19 日本精工(株) 職工 300人     9.22~25 中島電気製作所 42人
   11.9~26 園池製作所 機械工 260人 大正14.2.10~14 日本精工(株) 機械工 72人
大正10.1.11~25 日本鉄工(株) 機械工 90人     3.3~9 小島印刷所 印刷工 30人
    1.23~4.9 園池製作所 120人     5.30~6.3 東京帝国蓄音機(株) 職工 30人
    2中旬 高崎工業(株)     6.6~19 大崎機械製作所 機械工 28人
    7 上 岡原鉄工所 職工 11人     7.10~18 白金メリヤス メリヤス工 226人
大正11.3.3~6 富士機械製作所 機械工 全11人     7.11~19 明治電気(株) 電工 53人
    6.15~17 起重機製造(株) 50人     8.15~25 八ツ山製作所 製機工
    12.23~27 日本光学工業(株) レンズ工 16人     11.18~12.7 三共(株) 製薬工 70人
    23~25 ユニオンゴム(株) 全60人 大正15.2.18~3.4 日本光学工業(株) 職工 160人
大正12.9.15~21 東京工具製作所 職工 全7人     6下 目蒲電鉄 従業員 250人
大正13.1.4~16 大和製作所 職工 14人     7.3~13 応用電気(株) 職工
    1.10~18 東京衡器製作所 70人     8.12~23 長井商店菓子工場 製菓工 1人
    1.31~2.1 日本ペイント 132人     8.23~25 北川ベル工場 職工
    3.18 福田電気(株) 機械工 150人     8.23~9.2 新本時計工場 時計工 全54人
    3.28~4.2 斎藤製作所 職工 105人     10.1~17 日本光学工業(株) 職工
    4.4~7 東洋建材工業 製材工 55人     10.20~30 行政学会印刷所 印刷工
    4.9~19 岡部電気製作所 機械工 112人

(備考) 青木虹二『日本労働運動史』より作成