公立中学校・女学校の設立と夜学校

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 またこの時期になると、地域の生活も安定し、住民の教育に対する意識も高まり、上級学校への進学を望む者も次第に多くなっていった。そのようななかで、大正八年には、郡立の荏原実科高等女学校が(のちの府立第八高女現在の八潮高校)浅間台に設立された。荏原実科女学校は、当初大正七年に、郡役所の議事堂を仮校舎として開校したが、当時の入学者は一年生四六名、二年生一六名の計六二名であった。さらにこの学校には、地域の工場労働者のために、夜間の工業補習学校が併設された。

 また大正十二年になると、小山に府立第八中学校(今の小山台高等学校)が設立された。この校舎の建設には、当初目蒲線の予定路線にあわせて正門を設けたが、路線が予想と違って開設されたため、小山駅(現在の武蔵小山駅)が学校の裏門の前になってしまったというエピソードが残っている。ともあれ、当時第八中学は、地元のみならず広く旧市内から通学者を集め、生徒の個性の発揮、伸張を基調とした小山台教育ともいわれる人格教育を理想とした教育が行われていたことが教育界でも話題になったと伝えられている。

 このような高等教育への志向や、小学校への就学率の上昇のなかで、昼間生業に従事しているために就学できない家庭の児童があった。そのような児童のために、大正七年、東海・城南の二校に尋常夜学校が設立されたのである。次いで大正十四年には山中小学校にも大井尋常夜学校はじめ各地区に開設されていった。

 また、このころ現品川区地域に、私立学校の転入と新設があいついでみられた。例えば、現在の立正大学の前身である日蓮宗大学林、日本体操学校(昭和十四年世田谷へ転出)、である。大正十年には、星商業学校、現在の星薬科大学、次いで大正十四年には桐ケ丘に攻玉社が芝区から、上大崎に現在の杉野女子大学の前身、ドレスメーカー女学院が芝南佐久間町から移転してきている。

 昭和に入って昭和三年には現在の昭和大学の前身である昭和医専、昭和四年には旧品川小学校跡地に設立された品川高等女学校、中延に設立された立正学園女学校などが相次いで設立されたのであるが、その原因の一つは、交通至便の割に地価も安く、住宅地が多く閑静であったなどが指摘されるであろう。

 このようにして、明治末期から大正・昭和初期にかけ、品川の教育は地域社会の急激な変化に応じて、かなり急ピッチな、整備発展を遂げたといってよいのであろう。