関東大震災後の首都東京の復興と膨脹につれて、隣接町村の宅地化が急激に進み、人口は激増した。荏原町はその最も顕著な地域であり、一平方キロメートル当り二万五千人を越える過密状況を呈する程であった。昭和七年十月一日の市郡併合は、このような都市化現象の拡大への対応だったといえる。このようにして、在来の品川町・大崎町・大井町は品川区に、荏原町は荏原区となった。
世界第二位の都市となった「大東京」の新市域に加えられたとはいえ、品川・荏原両区の都市施設はきわめて立ち遅れていた。道路・上下水道・塵芥処理・糞尿処理施設等はまったく貧弱であり、これらの整備こそ新しく誕生した両区の緊急課題とされた。しかしこれらの課題は、上下水道問題を除いて、抜本的解決をみることなく、問題の殆んどは太平洋戦争後に持ち越された。
教育施設に関しても、状況は同じであった。人口増加に伴う学齢児童数の増大に、学校施設は追いつかなかった。例えば品川区では、昭和九年三月に三、三〇六人の小学校卒業生を出したが、四月には四、一六六人の入学者を迎えねばならず、差引八六〇人の児童の増加のため、やむなく二部授業を実施した。もちろん、二部授業の解消をめざして、小学校の増築、新築は進められたが、荏原区では十六年の学制改革で小学校が国民学校となっても、なお二部授業は完全に解消しなかった。