市郡併合の昭和七年は、いわゆる「十五年戦争」の発端である満州事変勃発の翌年にあたる。このように、品川・荏原両区は非常時下に生まれ、五・一五事件、二・二六事件を経て、日中戦争さらに太平洋戦争とつづく戦時体制下の歩みをよぎなくされる。
京浜工業地帯の一部をなす品川・荏原には、機械・金属・化学の各業種部門にわたる大工場がかなり集中していた。これらの工場は、戦時体制下の軍需の増大によって、いっそうの巨大化と発展をとげた。しかしながら、この地域における工場の八割から九割を占めたのは、従業員三十人未満の零細工場である。もちろんこれらの工場にも、業種によっては、軍需景気の影響が及ばなかったわけではない。ただ、品川における代表的工業であった輸出電球工業などは、戦時体制のなかで、輸出市場の喪失、軍需優先のための材料使用の制限、民需産業に対する整備措置等によって致命的な打撃を蒙った。昭和十六年には、電球輸出個数は最盛時の約二十分の一にまで減少した。
非常時下における労働運動の沈滞に関しては、品川・荏原も例外ではなかった。軍需景気は必らずしも賃金その他の労働条件を実質的に好転させたとはいいがたいものがあった。それにもかかわらず、以前から東京でも労働運動や無産政党運動の盛んな地域であった品川・荏原でさえも、昭和十年二月の荏原製作所総同盟組合員による賃金値上げ要求のストライキが、組合側の「敗北」に終ったケースを最後として、労働組合等による組織的運動は著るしく後退した。そして、労働組合は労資一体の産業報国会へと編制がえされていった。