区政と町会・隣組

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 東京市の区は、独立の議決機関である区会をもち、自己の財産や営造物を所有するなどの性格をもつ自治区であった。しかし、区長は東京市の任命であり、区には徴税・起債の財政的権限は与えられておらず、自治区としては名ばかりのものであった。住民自治という観点からすれば、このような区は、むしろ従来の町時代よりも後退したものであったといわれた。

 もちろん以上の点については、品川区会も荏原区会も不満であり、区の自治権拡充の要求を掲げて、それを都制促進の三十五区連合の運動として推進した。だが、戦時体制下ではこのような要求はいれられず、区政の現実は自治権拡充とは逆の方向にむかった。すなわち、区内の町会を整備して、行政の下部機構の組織としていくことが企てられた。さらに、日中戦争の開始を契機として国民精神総動員運動が推進されるや、それに呼応して、住民の団結を鞏固にするための住民組織として、町会のみならず隣組の結成が進められていった。

 住民の自治団体としての歴史をもつ町会の立場からは、以上に述べたような上からの町会整備に対して多少の抵抗がなされた。しかし、それによって大勢をかえることはできなかった。特に、戦争の長期化とともに生活物資が不足し、さまざまな生活必需品が町会組織をつうじて区民に配給されることになるにつれ、戦時体制化された町会は漸次区民生活に定着していった。太平洋戦争下、生活物資の不足がいっそう深刻化するや、その配給を掌握する町会・隣組を区民は否応なしに組織し、その組織の中に身をおかざるをえなくなった。品川区の町会の七割以上が、荏原区では六割五分以上が、町会常会・隣組常会の開催を定例化するに至ったという(昭和十七年)。

 このように、町会・隣組は戦時体制下における行政上の下請機関化され、戦争遂行の基礎単位とされた。その末端の隣組は、区民が戦争目的に協力しているかどうかを相互に監視しあう場所とさえなった。

 戦争の様相がきわめて苛烈・深刻となった十八年七月一日、東京都制が施行され、府と市が廃止された。それは府・市の二重機構にもとづく行政能率の低下を除去することが目的であって、かつて要求された区の自治権の拡充をめざすものではなかった。