疎開と戦災

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 戦局が日本軍にとって不利となるにつれ、敵機による本土空襲は不可避となり、そのための防空上の措置として建物疎開が実施された。品川・荏原には重要工場・過密地域・鉄道沿線地域が多く、防空空地をつくるために建物の破壊が急速におこなわれた。

 しかし現実の空襲のもとでは、これらの措置は殆んど効果がなかった。戦災で住宅を失ったものや、窮迫した東京の生活に耐えかねた人びとは、それぞれ縁故をたどって転出した。昭和十九年二月から九月までの間に、品川区では十一万六千人、荏原区では十二万一千人の人口が急激に減少した。特に学童については、国民学校三年生から六年生までが、保護者の申請のもとに集団疎開をした。十九年八月以降、品川区から八、五〇〇人が三多摩地域へ、荏原区から六、七〇〇人が静岡県へ、それぞれ疎開していった。


第106図 都市疎開に伴う地方転出証明書


第107図 疎開地からの便り・品川国民学校
(『品川小学校85周年記念誌』より)

 米軍機による最初の空襲(昭和十七年四月十八日)から、品川・荏原では被害を蒙ったが、十九年十一月二十四日以降、あたかも定期便のように飛来したB29の空襲は、物的被害のみならず区民に甚大な精神的ショックを与えた。二十年五月二十四日の空襲は、最大の被害をもたらし、品川区の死者六八名、重傷者五七三名、全焼家屋九、五四〇戸、罹災者三四、四五九名といわれ、荏原区では死者一八四名、重傷者一、七一二名、全焼家屋一五、〇〇〇戸、罹災者六万名にのぼった。それまですでに罹災していた部分をあわせ、地域全体は焼け野原と化した。


第108図 品川区荏原区戦災図(点線内が現在の品川区域)