戦争が終って、学童をはじめ疎開者は帰京した。そのため区人口は急激に増大した。例えば品川区についてみれば、人口増加の対前年比率は、二十一年に二六・五パーセント、二十二年で二〇・九パーセントであった。これらの人びとを待っていたのは、きびしい生活難であった。主食は一カ月近く遅配であったし、罹災者にとっては住宅の新築どころか間借りもむずかしい住宅難であった。しかもインフレによる物価の高騰は、生活難をさらに深刻にした。「ヤミと買出し」が公然となされた。大井町駅や五反田駅の前の青空市・ヤミ市は、この頃の世相の象徴であった。
戦後史の一大事件、食糧メーデー(二十一年五月)は、食糧危機を頂点とする社会不安のあらわれであったが、同年八月、旧荏原区では連合軍司令長官に対する食糧払い下げの感謝大会が開かれている。占領軍としても、深刻な日本の食糧危機を放置することができなかったのである。
占領軍の政策が、区民の生活に直接関係したひとつの問題は、教育改革であった。二十一年十月八日付の文部次官通達の形で、戦前の教育の基本とされた教育勅語の廃止が命令され、各学校の御真影奉安殿の撤去・転用さえ要求された。一方、軍国主義的教員の追放もおこなわれた。これら教育の旧体制の破壊の上に、二十三年の学校教育法に基づく六三制教育がおこなわれることになったのである。
しかし、戦災による小学校の被害は大きく、三部授業さえおこなわれ、戦災を免れた学校には幾つかの戦災校が同居する例も少なくなかった。新制中学に至っては、条件はいっそう悪かった。インフレ下で区敗政は行き詰り、新制中学発足を控えての校舎の新築は困難であった。そのため、小学校や私立の学校に間借りして、スタートした新制中学も珍しくなかった。