二十二年三月十五日、従来の品川・荏原両区が合併して新しい品川区ができた。同年四月には区長の公選がおこなわれ、五月鏑木忠正が初代の公選区長に就任した。いうまでもなく、これは戦後の自治権拡充運動の成果であり、区域の整理統合の結論でもあり、占領下の民主化政策とも無関係ではなかった。新しい品川区は、従来の区とは違った、一般の市と同等の権利をもつ特別区となったのである。区長と区議会の権限は拡大され、区の条令制定権も認められ、念願の課税権・起債権が獲得された。
しかし、地方自治体となったとはいえ、特別区の権限や財源には地方税法その他によって依然として都が掌握している部分が多く、特別区側から都に対し、事務の権限や財源を移譲せよとの要求がなされた。二十六年九月講和条約が締結され、占領体制が解かれるや、地方行政の中央集権化が進められ、二十七年には地方自治法が改正され、区長公選は廃止され、特別区の権限は縮小された。
区長を区民自身の手で選ぶ地方自治の基本的権利は、その後二十年間剥奪されたままであった。区民の意思を切り離した間接的な区長選任制を公選に近づける運動として、品川区民は区長準公選運動に強い関心を示し、四十七年十一月十二日区民投票をおこなうに至った。この準公選を布石として、五十年四月二十七日、二十三年振りに地方自治法改正に基づく区長公選を実施し、先に準公選によって選ばれていた多賀榮太郎が文字通りの公選区長となった。