区民生活の変化

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 戦後の飢餓状態とインフレからの脱却は、二十五年の朝鮮戦争を契機として可能になった。三十年代にはいって、戦後は終り、高度経済成長の時代に向った。区人口の増加は、そのひとつのあらわれである。地方人口の東京への流入は激しく、特に品川区には上京してとりあえず居住する低所得層の勤労者が多かった。三十五年には、区人口は四十万をこえた(第18表)。

第18表 品川区における人口の推移(昭和30年~39年)
年次 世帯数 人口 人口の対前年増加
総数 実数
昭和30年 96,419 374,184 191,614 182,570 11,774 3.2
31 97,799 374,498 192,016 182,482 314 0.1
32 100,959 381,209 196,237 184,972 6,711 1.7
33 102,388 384,445 198,867 185,578 3,236 0.8
34 108,112 393,546 203,588 189,958 9,101 2.3
35 113,258 402,583 209,161 193,422 9,037 2.3
36 120,455 409.003 212,889 196,114 6,420 1.5
37 130,559 414,520 216,133 198,387 5,517 1.3
38 135,824 412,012 214,025 197,987 △2,508 △0.6
39 144,535 415,728 215,662 200,066 3,716 0.9

(△は減)

 三十三年十一月には、品川区民の正田美智子さんの皇太子妃となることが発表され、翌年四月十日には結婚式が挙行された。いわゆるミッチー・ブームに、区内の池田山周辺には祝賀気分が横溢した。その翌年には、安保反対のデモが、国会を包囲し、区民のなかからも多くの人びとがこれに参加した。

 高度成長期にはいるとともに、区民生活のパターンに著しい変化が見え始めた。電気・冷蔵庫・テレビ・電気洗濯機に代表される家庭電化製品の普及は、生活の様相を変えた。自家用自動車の増加によるモータリゼーションもまた、生活に大きな変化をもたらした、

 戦後復興の最大の課題であった住宅建設に関しては、三十年代には、都や住宅公団等により鉄筋コンクリートの中層アパートの建設が多くなり、「団地生活」という新しい居住形態が区民の生活の主要な部分を占め始めた。ただ、品川区内では中小団地や社宅団地が主なものであって、巨大な高層アパートによるマンモス団地ができるのは、四十年代にはいってからの再開発が進められてからのことである。これらの団地に居住する住民と、古くから区内に居住する人びととの間には、居住地域への帰属意識の点で、著しい相違のあることは否定できない。

 三十七年十二月の漁業補償協定の成立をもって、区内漁民の漁業権が放棄され、長い歴史をもつ品川の漁業は終りを告げた。ここにも、古い品川の終焉がある。