[解説]

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前句附集 上田近郊
☆☆史料タイトル☆☆

二松学舎大学文学部客員教授 矢羽勝幸

東信地方を主とした雑俳(ざっぱい)の高点集(写し)を十二部合綴したもの。雑俳とは、雑体(ざってい)の俳諧の意で、前句付(本書の表紙中央に「前句附集」とあるが正しくは「前句付」)・笠付・天地付・折句等々主として庶民が江戸初期から行っていた文芸。特に前句付から後年「川柳」という独立した文芸が誕生するのは注目される。前句付とは出題の前句(七七または五七五)に付句(五七五または七七)をする形式。笠付とは五文字を題としてこれに十二字を付ける形式。天地付とは十七文字の首尾に題の二字を詠み込む形式、折句は本書にも出る「こはいなる物ハ」という問いに付ける形式。右の付句に「女の心」とみえるのは、古今変わらぬ庶民感情がうかがえて面白い。 次にこれらの作品が詠まれた時代であるが、花月翁表紙に「寛政前後之頃」と記すように寛政元年(一七八九)から同九年八月までの様子である。普通これらの作品を選別する選者を記すことはほとんど無いが、本資料では如水・如風・楼笛の三名を記している。中央の人か地元の人かは定かではない。 またこれらの作品の作者であるが普通「連」「組」の名によって出句し、個人名が出ることは稀である。しかし本資料には、純正俳諧を行った加舎白雄門下の上田俳人荒井三机・同争茂伊藤文下・志仙・子俊や金沢出身の行脚(あんぎや)俳人村斗入等の作品が見えるのは甚だ興味深い。 斗入は、文化二年(一八〇五)閏八月十九日、別所の俳人倉沢乙堂宅(現・柏屋別荘)で客死いている。同家の菩提寺安楽寺に位牌があるが墓は現存しない。 出句した「連」の所在は、上田市内の原町・木町・柳町・房山・瓦焼(現・川原柳)・大屋・石神・岩下・金井・丸子・長瀬・漆戸・新屋・深山・藤原田・立岩・武石・腰越・野竹・三角・飯沼や東御市の祢津・田中・八重原・中屋敷や長和町の和田・長久保さらに立科町の芦田・牛鹿から群馬県まで及んでいる。 その和田の「連」に「星石組」があるが、この星石は同地の黒曜石のことであろう。ここで興味深いのは、これら雑排が神社(石尊神社・荒神・瀧の宮男石)に奉納されたことである。 「うた(歌)」の語源については様々な説があるが、その一つに「(神に)うたう(訴)」がある。つまり古代の和歌は祝詞(のりと)と同様「言霊(ことだま)」を以て神に訴える手段であった。小野小町の神泉苑での雨ごいの歌「ことわりや日の本ならば照りもせめさりとてはまたあめがし下とは」等々例歌は多い。 江戸の後期に至ってもなお東晋地方ではこの古代人の心を失っていなかったことが分る。この他気付いたことを記すと作品中に方言が見えることである。「うしろから思ひもよらのうしろから」。「の」は正しくは「ぬ」であろう。 もっとも今日の標準語が出来るのは明治になってからであるから、むしろその地方色をこそ味わうべきであろう。また政治批判の句もある。「飛鳥の落る田沼をたれも見よ」田沼政治への一種の批評であろう。 次に句の下に見える「長印」「長」の語であるがこれは「長点」とも言い、点者が最上の作品に付けた印しで点者によって特別の印章を所持、使用していた。 最後に全十二巻の書誌を記したい。表紙はありあわせの厚紙を設け、右端に二箇所紙によるコヨリで綴じている。表題は中央にペンで「前句附集」、右側に「寛政前後之頃」左側に「上田近邨ノモノ 原町選

瓦焼選

木町集

等あり」と記されている。また最後の丁には「文化三寅ノ年…」の一紙が貼られているが本資料とは内容が無関係であるから割愛した。 扨、十二巻の書誌であるが、一は表紙を含め十丁。縦(以下タと略す)。二十六センチ(以下糎と略す)。二は表紙を含め六丁。寸法は一に同じ。三は十丁。寸法は一に同じ。四は四丁。タ二十五・七糎。五は一丁。寸法は四に同じ。六は十二丁。寸法は四に同じ。七は三丁。タ二十五・七糎、ヨ十八糎。八は一丁のみ。タは二十五・六糎、ヨ十七糎。九は五丁。タ十六・五糎、ヨ十九糎。十は三丁。タ二十五糎、ヨ十六糎である。 なお、翻字にあたって濁点はそのまゝとした。