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[解説]
安政2年(1855)、幕府は長崎に海軍伝習所を設け、オランダ士官等を教官として、海軍ほかの軍事科学教育を行った。上田藩士赤松小三郎は、勝麟太郎(海舟)の門弟として勝に随行し、伝習に参加している。本日記には勝について(従者)「九人」とあるが、赤松はその一人だったと見られている。
伝習第一期生は、幕府の軍艦昌平丸により品川から長崎へ赴いた。「船将」は矢田堀景蔵と勝麟太郎であった。本史料は赤松が、その航行について、8月30日の江戸出立、翌9月1日の乗船、3日の品川出帆から10月20日の長崎入港までを記録したもの。意外に日数を要しているのは、洋式軍艦と言っても帆船であり、「マキリテ」と見える様に間切り走りで向かい風でも航行したとはいえ、順風が少なくやはり困難があった上に、帆柱が折れたり、碇の故障があったためか。
航路は太平洋側の沿岸を進んだ後、紀伊半島を廻って瀬戸内海に入り、下関経由で九州北岸へ出て、長崎に至っている。
以下は長崎での記述だが、この年蘭船により持ち込まれたという洋書名は、ほとんどカタカナ書きで見ての通り。その他もメモ等であり、また鉛筆書き部分は薄れていて判読不能の部分も多いため、翻刻は省略させていただく。
なお、本書に赤松が付けた原題は「美美婦久呂」であり「長崎航路日記」は、「花月文庫」の収集者飯島花月の命名である。