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[解説]
『源氏百人一首』は、藤原定家撰とされる『百人一首』に倣った異種百人一首のひとつで、『源氏物語』の中で和歌を詠じた登場人物を選出し、各々一首を掲出したものである。物語の登場人物を選出して作中歌を掲出するという点では、異種百人一首の中でも異彩を放つ作品と言える。しかも、「百人一首」という名称を用いながら、実際には百二十三人、百二十三首を収めるということも本質的に他とは異なる。この点については、後に言及する。
『源氏百人一首』の撰者は黒澤翁満(おきなまろ)。翁満(寛政七年[1795]ー安政六年[1859])は、桑名藩主松平家に仕えた武士で、賀茂真淵の古典学を独学で学んだ。国学者、歌人として知られる翁満の著作は、家集のほか、和歌研究、国語学、国文学、随筆、紀行文、地誌等々、多岐にわたる。とりわけ、翁満は歌人、和歌研究者として高い評価を得ていた。自身の住居を葎居(むぐらい)と称し、家集に『葎居集』、『葎居後集』がある。和歌研究では『萬葉集大全』『古今集大全』などがあり、本書『源氏百人一首』も著名な一書である。
『源氏百人一首』の翻刻紹介に際して底本とした上田市立上田図書館花月文庫の一冊(目録:百人一首・5)は、大本一冊(タテ25.8cm×ヨコ1800cm)、表紙題箋に「源氏百人一首 完」とある。刊年は天保十二年(1841)正月で、出版元として江戸書林の千鍾房、金花堂、玉山堂の名が並ぶ。奥付には発行書林として「芝神明前 岡田屋嘉七」以下八名が名を連ねる。書は松軒由靖、画は棔斉清福の筆になる。
『源氏百人一首』は、巻頭に橘守部、菅原(前田)夏蔭(標題は「源氏物語一人一首序」)、藤原宇美の三者による序文がある。刊本によって順序は異なる。序文に続いて、翁満による「惣論」、そして和歌本文が配される。撰述者翁満による「惣論」は全九項目からなり、八丁に及ぶ。内容は『源氏物語』を中心とした物語論、水滸伝との比較、作者である紫式部を論じた作家論、源氏注釈書などについて論述している。さらに、本書撰述の目的や編輯方針などが記されるが、翁満はその中で、本書が『百人一首』に拠りながら百二十三首になっていることを次のように説明する。すなわち、『源氏物語』の登場人物三百三十余名のうち、和歌を詠んでいる人物は百二十三名であり、本書ではその人物の和歌を各々一首選び出した。百二十三という数は「百人一首」と呼称する許容の範囲にあるだろうと。ずいぶんと大雑把な物言いに響くが、本書が百二十三首によって構成されている事由は上のとおりである。百首の枠を超えても「百人一首」という名称に強くこだわったのは、幼童を含めた多くの読者を有する『百人一首』にあやかりたいという翁満の切実な思いによるもので、『源氏物語』を普及させたいと願う真情が伝わってくる。
和歌の配列については、物語展開の順序を原則としつつ、「源氏一部の大旨幽にも思ひたどられなんやうにとて殊更にものしつるも有なり」(惣論)と記すように、物語中の順にとらわれない事例もまま見受けられる。桐壺帝の「いときなき初もとゆひに長き世を契るこゝろはむすびこめつや」が巻頭に配されていることも一例で、巻頭を飾るに相応しい人物と和歌を優先した結果として巻頭に桐壺帝が選ばれた。和歌は歌人の肖像とともに記され、歌人の略伝と和歌の詠出状況、語釈、歌意などを記した頭注が付される。本書を巻頭から繙いていくと、物語の大筋が理解できる仕組みになっているのである。
周知のように、『源氏物語』には多数の作中歌が収められている。その数は七百九十五首に及ぶが、最多は光源氏の二百二十一首と、主人公に相応しく他を圧倒している。以下、薫→五十七首、夕霧→三十九首、浮舟→二十六首、匂宮→二十四首、紫の上→二十三首、明石の君→二十二首、玉蔓→二十首と続く。これら主要な人物については、多くの和歌の中から一首を採択することは困難な作業であったと思われる。どのような場面での一首であるかを確認されたい。一方で、物語の中にわずかに一首をとどめている人物もいる。物語の中では名前すら記されない例も見られ、その場合、本書では蒜食女(ひるくいのおんな、12)、物気童(もののけのわらわ、88)、負方女御(まけがたのにょうご、93)など、仮の名が付与されている。このようにみてくると、『源氏百人一首』の歌々が『源氏物語』の秀歌撰でないことは理解できるであろう。翁満が本書を撰述、刊行することで企図したことは、登場人物を中心として『源氏物語』を理解することであり、作中人物の和歌をとおして人物の理解を促し、それによって物語の大筋を捉えて『源氏物語』をより深く味わうための契機とすることであった。多くの読者が『源氏百人一首』所収の歌々を本書の頭注を参考にして鑑賞し、併せて、肖像により登場人物に思いを馳せつつ『源氏物語』の世界への扉を開くことを願う。
[参考文献]
・余田充「〈資料紹介〉凌雲文庫本『源氏百人一首』」(『四国大学紀要 A人文・社会科学編』・第四号、1995年12月)
・小町谷照彦「源氏百人一首のことなど」(『源氏研究』4号、1999年4月)
・菅宗次『源氏百人一首』(和泉書院影印叢刊91、1999年6月)
・徳原茂実「源氏百人一首(翻刻)」(『武庫川国文』71号、2008年12月)
・山本令子「『源氏百人一首』小考」(『藝文研究』101号、2011年12月)