惣論

原本9~17

源氏百人一首

惣論         黒沢翁満述

〇物語といふ物は唐土(もろこし)の小説(せうせつ)、今の世の草双紙(くさざうし)なり、されば本(もと)より跡形(あとかた)もなき事、又はいさゝかの故事(ふること)などを拠(よりどころ)として世に奇(あや)しくめつらかに見る人の目をよろこはしむらん事などを殊更(ことさら)に思ひ設(まうけ)て作りなせる物なり、さはいへど其作りざまも又種々(くさぐさ)有て或は長き事をつゞまやかに短く書くるもあり、又は短き事を引延(ひきのべ)てなだらかに書るもあれども大方は世になく奇しき事を世にあるさまに書なして男女(めを)のなからひ物の義理合(ぎりあひ)など人情(にんぜう)にかなへらんやうに作れ物なる事全(またく)今の草双紙に異なる事なし、其文(そのぶん)の雅(が)なるを俗(ぞく)なると趣向(しゆかう)の古風(こふう)なると今風(いまふう)なるとの差別こそあれ、同じおもむきなる事、彼と是とを見合せて悟るべし、さるを今世の歌学者流(かがくしやりう)に是を事むつかしく言なして尊(たふと)げにもてあつかふ輩(ともがら)などもあるは中々に物語の本意(ほい)にもそむきていみじき非(ひがこと)也、唯(たゞ)つれづれのなぐさめに見る為の物にして古代の草双紙になんありける、されば昔は我も我もといくらも作り出したる物なるが中に其名のみ残りて今の世に伝(つたは)らぬは其趣向も如何(いか)なりけん、知難(しりがた)けれども大方今の世に残り止(とゞ)まれるは竹取、うつぼ、世つぎ、いせ、狭衣(さごろも)、取替(とりかへ)ばやの類(たぐひ)、猶(なほ)彼是有皆其おもむきはかなく本末(もとすゑ)しどけなきやうなる物而已(のみ)なるを独(ひとり)此源氏物語なん類(るい)をぬけ出て実録(じつろく)といはんに覚束(おぼつか)なからず、三四代(さんよだい)の間(あはひ)の事を公私(おほやけわたくし)に渡りて細(こまか)に作りなせる筆力(ひつりよく)、凡人(ぼんにん)の及所(およぶところ)にあらず、且(かつ)人情(にんぜう)をよくうがちて其文(そのぶん)の妙(たへ)なる事、譬(たとふ)るに物なし、世に唐土の小説の中には水滸伝(すいこでん)をもて第一の上作(じやうさく)として其書余りに妙文なる故に是を書著(かきあらは)したる作者は子孫三代が間瘂(おふし)に生れしといふ浮説(ふせつ)などもあるは其文の妙なるを限(かぎり)なくほめたる物也、されども今此源氏物語にくらべ見ればかの水滸伝などの文はいといと拙(つたな)く日を同じうして論ずべき物にあらず、中にも伝中(でんちう)人物のおもむき始終(しじう)一貫せざる物多く始強かりし人の後によはくなり、始才有し人の後に不才となる類(たぐひ)あげて数へ難し、増て人々の気質(きしつ)の細(こまか)なる所などに至ては殊に本末通らずして別人の如く見ゆるさへ多きを、此源氏におきては物語中数百人の気質を一人一人にいと細やかに書分て始より終迄(おはりまで)長き間に聊(いさゝか)も乱(みだれ)ず誰は誰の気質、彼は彼の本性(ほんぜう)と悉(ことごと)く一貫せる事実に奇しき迄妙なる物也、世にもてはやせる水滸伝だに猶かくの如くなれば増て其余は論ずるに足ず、されば和漢の小説物語類の中には此源氏ばかりすぐれたるはなく群(ぐん)を離(はなれ)て独はるかに高く尊く妙にめてたき物なる事を知べし、然(しか)るを昔よりの注釈(ちうさく)どもに益(やく)なき儒書(じゆしよ)よ仏書(ぶつしよ)よとてことごとしく引書(いんしよ)をなしさしも無事(なきこと)をほめのゝしりながらかゝる所に眼(まなこ)をつけて味(あぢは)ひ見る人なきはいかにぞや、

〇此物語の作者紫式部は越前守(かみ)藤原為時(ためとき)の娘にて、右衛門佐(すけ)宣孝(よしたか)の室(しつ)となり、大弐三位(だいにのさんゐ)を産(うみ)し人也、御堂関白(みだうのくわんはく)道長公の北方(きたのかた)倫子(りんし)に仕へて其後、一条院の后上東門院は則(すなはち)道長公の御娘なるをもて、又上東門院の女房となれり、此物語は其程(そのほど)に作れる物也、さて藤原氏の娘なれば藤式部(とうしきぶ)といふべきを紫式部としも言る名義(なのこゝろ)は清輔朝臣(きよすけあそん)の袋草紙(ふくろざうし)に紫式部といふ名二説あり、一には此物語の中に若紫巻を作る甚(はなはだ)深きの故比名を得たり、一には一条院御乳母(めのと)の子也上東門院に奉しむるとて我ゆかりの者也、あはれとおぼしめせと申さしめ給ふの故此名あり、武蔵野の義也、云々とあるに付て昔より説々(せつぜつ)あれども則紫式部の書る日記の中にあなかしこ此渡りに若紫やさぶらふと伺ひ給ふ源氏に似るべき人も見え給はぬ上はいかゞ物し給はんと聞居たり云々(しかしか)とあるは、左衛門督(かみ)公任(きんたふ)卿戯(たはふれ)に紫式部をさして若紫と言し也、如比(かくのごとく)言し心は源氏一部の中に紫上は女の最上なれば、それになずらへて戯れたるなり、もし紫式部男子ならば光源氏やさぶらふといふべき語勢(ごせい)也、然れば其比(そのころ)紫の物語とはいはずとも一名をさもいふばかりなりし事を知べし、其作者なれば藤は本より紫藤(しとう)ともいひてかたがたよせあるをもて若紫の作者よといふ心に藤式部を紫式部とよびかへられたる物と見ん方おだやかなるに似たり、始より自のよび名に紫の文字を付ながら殊更に物語中のすぐれたる女を紫としも名付ん事おのづから有まじき事と聞ゆ、よくよく考へ渡して悟るべし、

〇此物語の注釈は昔よりいといと多くあれども北村季吟(きぎん)の湖月抄(こげつせう)に其要(そのえう)をつみて悉く出したれば、それより以往(あなた)の抄(せう)どもは湖月にて大方(おほかた)足(たれ)り、且其後とても源注拾遺(げんちうしふい)、源氏新釈(しんしやく)、玉小櫛(たまをぐし)など猶彼是手を入るたる物も有て追々に明らかに成来(なりき)にけるを猶湖月抄は本文ごめに全備(ぜんび)して見るに便(たより)よきをもてとかく是に而已(のみ)よる人多し、且明らかに成ぬといへども猶いかにぞや覚ゆるふしぶしも少からず、殊に歌の解などは語を解る而已にて心を言るはまれなり、今は惣(すべ)てにはかゝはらず唯百首余りの歌のうへ而已なれども其解方(ときかた)大方古注に異なる物多し、見合せて味ふべし、

〇世に紫式部は余りに妙文(めうぶん)を書出たる罪によりて地獄に落たりといふ浮説なるは、法師の輩のわざくれにて尤(もつとも)論ずるにたらぬことなれども、つらつら思ふに此物語を書る中に罪とすべき事無にあらず、古抄どもにとかく物語の本意をまげて強(しひ)て儒(じゆ)に引付(ひきつけ)、仏(ぶつ)に引付など、蛇足(じやそく)の弁(べん)をそへたるは多くて、かゝる一大事をしも論じたる物無(なき)は委(くは)しからぬ事也、いま明らかに弁(わきまふ)るを見るべし、そもそも朱雀院(すざくゐん)冷泉院(れんぜいゐん)など歴代の天皇の尊号(おほみな)を其まゝに書出せる事いといと有まじき大罪(だいざい)ならずや、本(もと)より唯其尊号を借たる而已の事ながら殊に冷泉院は母后(ぼこう)源氏と密通(みつつう)の胤(たね)なるよしに書るなぞは懸(かけ)てもあるまじき事なるを思ふべし、発端(ほつたん)の語に何(いづ)れの御時にか有けん云々と書出たる始終此心もてかくべき事なるをや是によりて思ふに上に言る堕獄(だごく)の浮説は古くかやうの批判なども有しを其片端(かたはし)を聞伝へて法師の輩おおのが道に引つけて、さる筋はいひ出せるにもやあらん、其引付ごとこそいと悪けれ、罪有としも言るはいみじく聞所(きゝどころ)ありて覚ゆ、恐(かしこけ)れど我皇国(すめらみくに)は神代より今の人皇(にんわう)に至る迄、かたじけなくも皇統(くはうとう)絶させ給はず天地(あめつち)とゝもに天(あま)つ日嗣(ひつぎ)知(しろ)しめそばたとへ太古の天皇(すべらぎ)といへども今上皇帝(きんじやうくはうてい)とひとしく敬(うやま)ひ畏(かしこ)み奉るらずして叶(かな)はざる理(ことわり)なるを、中頃より此心を忘れて道々(みちみち)しき書(ふみ)どもなども罪を犯せる物少からず、増て今の世の物などにはおのがじゝ心々に昔の天皇の大御上(おほみうへ)をよくも悪(あし)くも書すさび、聊も憚(はゞか)る事なきは、唐土の振(ふり)の移れるものにていみじき非の限なるを思ふべし、彼の国は国王暫(しばらく)も続く事なくたとへば皇国(みくに)の武将(ぶしやう)などの如く移り替れば唐の世と成ては漢(かん)の世は他人なれば憚るに及ばず、又明の世と成ては唐の世は他人なれば憚るに及ばず、代々皆かくの如くなれば彼所(かしこ)の書どもには惣てさるふりにのみ書るを爰(こゝ)にも見習ひて其風(そのふう)に移り本を忘れたるよりの非也、則源氏物語も此群(むれ)をまぬかるゝ事あたはざるを知るべし、然るを近頃或説に是を助(たすけ)て朱雀院冷泉院などはおりゐさせ給へる院の名にて天子(てんし)をさして申すにはあらずなどもいへるはなかなか委しからぬ非なり、其印の名則御縊(おくりな)なる物をや、

〇今此書を作れる故は世に小倉百人一首の普(あまね)く都鄙(とひ)に行はれて牛引童(うしひくわらべ)糸くる処女(をとめ)迄もまだ舌の廻(まは)らぬ程よりしたしく口にずし習ひて忘るゝ事なきは何の比よりか、此百首を一巻となし絵をさへ加へて世に弘くなしたるが自(おのづから)目馴(めなれ)安くて童子(わらはべ)の心に叶へる故也、然ある而已にあらずかるたといふ物をさへ調(てう)じ出て春の日暮しもてあそび物となれるからに、弥(いよいよ)益(ますます)行はれて老若男女ともに歌といへば百人一首と誰知ぬ者もなく、山の奥島のはて迄も行渡れる也、其後は是に習ひて何の歌がるたくれの歌がるたとやうに追々に調じ出たる、或は伊勢物語、或は古今集などを始て則源氏も源氏がるたとて世にあるは五十四帖(ごじふよでう)の巻名(まきのな)の歌どもをかるたになせる物也、されど是は唯僅(わづか)の歌をしる而已にて物語中の人名を知便(しるたより)にだにならず、増て其おもむきの片端をも伺ひ知べき物にはあらず、且此歌のかるたどもは世に弘く上下おしなべたるもてあそび物にあらず、さる物有とだに知人まれ也、然(しか)行はれざる事の本を考るに是其始に絵を加へたる一巻の世に行はるゝ物なければぞかし、兼(かね)て目馴ざればたまたまかるたに向ひても取事あたはず、取事あたはざれば倦(うみ)て楽しからざる故に自(おのづから)行(おこな)はれ難き也けり、よて今は源氏物語中なる人々の歌どもを一人(いちにん)に一首(いつしゆ)づゝあげて傍に其詠人(よみびと)の小伝(せうでん)をしるし、歌の注解をなし悉く絵を加へてひたすらかの小倉百人一首に習へる物也、かくて板にゑり世に弘くなして幸に行はれそめんにはかのかるたといふ物さへ類(るい)ひろく成もて行て終(つひ)にはおしなべてのもてあそび物とならば自此物語の片端を世の童子に口ならし目なれしむる一(ひとつ)のはしだてとも成ぬべしと誰彼(たれかれ)のそゝのかし乞るまゝに、此度聊のいとまのひまに筆を起して僅の間になし終(をへ)つる也、

〇此物語に出たる人々其数凡(おほよ)そ三百丗(さんじふ)人余りある中に、半(なかば)は名而已有(なのみあり)て其わざなき人々也、たとへば六条の御息所(みやすどころ)は大臣の娘にて前坊(ぜんばう)の御息所也と言る類、大臣と前坊は唯御息所の身の上を知せん為に書出たるのみにて、いはゞ其発端に用ひたる而已也、惣ての人を書出せるに此類いといと多し、又人の子の生るゝよしは見えて其子のわざとては無物(なきもの)も多し、其外(そのほか)いとかりそめに名のみ出たる人々など彼是合せて半にも過たり、されば此類は勿論にて其余(そのよ)物語中にわざある人々といへども自然に歌一首も詠ざる人あり、よて是等の類(るい)をのぞき去たる上にて人一人につきて歌一首づゝを撰び出たる其数百廿三人になん有ける、

〇上にも言る如く其名有て歌無人もあれば、又歌有て名なき人あり、たとへば秋好中宮(あきこのむちうぐう)の女房たちの詠るとて歌三四首も並べ出し、或は殿上人と而已有(のみあり)て誰ともいはざる類也、此類もまた彼是あるを今は其類の詞を取て其人の名とし、又は其住処(すみか)もて名付(なづけ)などもして仮初(かりそめ)の名をまうけ出せり、是作者の心にあらざればいかゞともいふべけれど、さらではまじるしとするよしなく、且(かつ)は指喰(ゆびくひ)の女、蒜喰(ひるくひ)の女などの類も本より作者の知ぬ名なれども是等は物語の方に出たる人々なればおのづから目馴口馴(めなれくちなる)る人の多き故に唯いつとなく然いひなれたる名なるを思ふべし、されば今設たるも、則此類なればなでふ事か有んとてなん、

〇惣ての書に官位(くわんゐ)ある人は其極官(ごくくはん)を出す事、是大方の定め也、然れども今は此例にかゝはらずして六条院と書べきを光源氏君とし、柏木(かしはぎの)権大納言と書べきを柏木右衛門督と書る類多し、是等は聊にても広く世人(よのひと)の耳にふれたる方(かた)を出して童子におぼえ安からしめんとて也、且歌は有に従ひて拾ひ入つとはいふ物の始より順に人々の小伝と歌の解とを見合せて源氏一部の大旨(おほむね)の幽(かすか)にも思ひたどられなんやうにとて殊更にものしつるも有なり、

〇絵は童子に目馴安からしめんとてのわざなれば、人々の装束(しやうぞく)など唯絵師(ゑし)に任せて大方に物せさせつれば見知ん人の為に其よし聊ことわりおく、且此書名を源氏百人一首としも言る事は其実(じつ)は百廿三人の歌あるに違(たが)ひてはいかゞなるやうなれども、是は唯おほよそに源氏の歌にて小倉百人一首の如き物ぞといふことを暗(そら)に知安からしめんとてのわざ也、あやしと思はん人の為に是はたことわりおく物ぞかし、