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[解説]
『後撰百人一首』は、藤原定家撰とされる『百人一首』に倣った異種百人一首のひとつで、寛政十二年(1800)十一月の年紀を有する富小路貞直の序文によれば、二条良基撰の百首が時を経て虫食いで欠けた歌があったので、中院関白顕実が補って撰んだとされる。このことを信じると、異種百人一首の中でもっとも古い書となるが、近世期をさかのぼる写本がないこと、良基撰の百首を補ったとされる中院関白顕実という人物の存在が疑わしいことなどから、現在では撰者を二条良基とすることには否定的で、良基に仮託した書と考えられている。
『後撰百人一首』は本家の『百人一首』に同じく、歌人百名を選出して和歌一首を掲載する秀歌撰である。本書は、文化四年(1807)刊の版本がもっとも古く、翻刻に際して底本とした上田市立図書館花月文庫の一冊は大本一冊(タテ25、8㎝×ヨコ17、6㎝)。表紙題箋は剥落して打ち付け書きで『後撰百人一首』とあり、内題には「娯勢武肥也矩仁無移新喩」とある。奥付には「筒井尚堂書伯手澤/淵上旭江畫宗縮圖/彫生 浪華 藤本金兵衛/文化龍集丁卯夏新鐫/大坂書舗 葛城長兵衛/向井八三郎/多田勘兵衛」と記される。
『後撰百人一首』は、多くの『百人一首』の版本に倣って、歌人の肖像画が付されている。画工は上に記した渕上旭江。和歌と歌人の肖像の他に、頭注として和歌の語釈や歌意を載せる。また、頭注の中には簡略な歌絵を載せるものもある。
歌人についてみると、巻頭に村上天皇が配されている。村上天皇は『古今和歌集』につぐ二番目の勅撰和歌集『後撰和歌集』の撰集下命者で、書名を『後撰百人一首』とすることからの措置と言えよう。『後撰―』という名称は『百人一首』の続編たることを意識したものと考えられる。本書は村上天皇以下、惟喬親王(02)と続いて、頓阿法師(99)、近衞関白左大臣(100)に至る。歌人選出の方針は『百人一首』に採択されている歌人をのぞいた歌人を選出することを原則としているが、本書07番の「権中納言公経」と28番の「西園寺前太政大臣」はともに藤原(西園寺)公経であり、『百人一首』96番の作者「入道前太政大臣」と同一人物であることを例外とする。従って、『後撰和歌集』の作者は九十九名となる。藤原公経が『百人一首』と重複するばかりではなく、その公経を二度にわたって掲載していることは不審であるが、その事由は不明である。歌人の採択範囲は平安時代前期から南北朝期までで、男女の内訳は男性82名、女性18名となっていて、『百人一首』(男性・79、女性21)とも大きな差異は認められない。歌人の採択に関しては、惟喬親王(02)、法橋顕昭(08)、鴨長明(11)、皇太后宮大夫俊成女(12)、前大納言為家(35)、兼好法師(37)、神祇伯顕仲(65)、従三位頼政(66)等々、概ね妥当な人選となっているが、一部に評価の高くない歌人が選ばれていることも『百人一首』に同じである。和歌の配列は原則的に歌人の生年による時代順とする『百人一首』にたいして、本書は明確な配列意識が見て取れない。
採択和歌について、これも『百人一首』同様に勅撰和歌集に入集する和歌を選出するという原則に従っている。九十六首の和歌が『古今和歌集』から『新続古今和歌集』までの勅撰二十一代集に入集している和歌であるが、13番歌、52番歌、53番歌、55番歌、76番歌の五首は例外である。五首のうち、53番歌、55番歌、76番歌の三首は『続詞花和歌集』所載歌である。藤原清輔撰『続詞花和歌集』は第七の勅撰集となるところを下命者である二条天皇の崩御によって実現せず、私撰集として完成をみたもので、勅撰集に準ずる撰集とされていたことが窺われる。このように理会すると、撰者に目されている13番の良基(後普光園摂政太政大臣)歌が勅撰集入集歌でないことは、きわめて不可解な事柄と言わざるを得ない。採択歌について一つ付言すると、歌枕、地名歌が多く採られていることは留意される。「六田の淀は大和の名所也」(07頭注)、「木曾の御坂は、信濃の名所なり」(11頭注)、「交野のみのは、河内の名所也」(55頭注)などと、そのことは頭注にもしばしば取り上げられている。
なお、異種百人一首の同類のものに、足利義尚撰『新百人一首』がある(花月文庫にも写本一本が存する)。文武天皇、聖武天皇を巻頭に配して伏見院、花園院の二首が巻軸を締め括る配列を示していて『後撰百人一首』に比して『百人一首』をより強く意識した撰集であることが見て取れる。