[解説]

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義烈百人一首
義烈百人一首

松本大学 中西満義

 『義烈百人一首』は、緑亭川柳の編輯になる変わり百人一首で、刊本奥付には「嘉永三年庚戌正月発売」とあり、嘉永三年(1850)の新春に刊行されたことが知れる。尾陽、文嶺原田記撰の「義烈百人一首序」には「嘉永二已酉冬」と記され、緑亭川柳自身による序文には「嘉永三年春」、また、梅屋による跋文には「嘉永二年春」と記される。同奥付には「馬喰町二丁目/東都書肆 錦耕堂 山口屋藤兵衛梓」とあり、緑亭川柳編輯の他の変わり(異種)百人一首と同じ書肆から刊行されたものであることが確認される。内題は「東都書肆/錦耕堂梓/義烈百人一首 完/緑亭川柳輯/諸名家集筆/画図精密」と陰刻で記される。なお、同奥付には、『畸人百首』と『瑞応百歌撰』(全部十冊)の近刻紹介が見られる。

 緑亭川柳は本書の編輯に先立ち弘化二年(1845)に『英雄百人一首』、弘化四年(1847)に『烈女百人一首』、さらに、嘉永二年(1849)に『続英雄百人一首』を上梓している(ほかに、弘化五年(1848)刊の『秀雅百人一首』がある)。伊藤嘉夫「武家百人一首と其の類列の百人一首」(「跡見学園短期大学紀要」7、8、1971年3月→『百人一首研究資料集 第六巻 論文集』(クレス出版、2004)に収録)の「この本は前輯、英雄百人一首、烈女百人一首、続英雄百人一首の盛行をみたのに気をよくして続撰されたもの」との指摘は的を射たものと言えよう。変わり(異種)百人一首にかぎっても緑亭川柳はわずか数年の間に精力的な仕事を果たしている。

 本書の編者緑亭川柳について、『日本古典文学大辞典』(岩波書店、1985)はつぎのように記す(執筆、興津要氏)。

 緑亭川柳(りょくていせんりゅう)川柳点者。通称水谷金蔵。腥斎佃(なまぐさいたつくり)、緑亭風笑と号す。天明七年(1787)生。江戸佃島の魚商。安政五年(1858)八月十六日没、年七十二。天保八年(1837)ごろ、五世川柳を襲名し、緑亭川柳と号した。その門下には、若き日の人情本作家山々亭有人(ありんど)がいた。戯作としては『遊仙沓春雨物語』(弘化四年、1847)刊、『応現お竹物語』(一冊、歌川国芳画)嘉永二年(1849)刊などがあった。本領は川柳点者にあり、戯作は余技に過ぎなかった。

 上の項目の記述に従うと、変わり(異種)百人一首編集の事蹟についても緑亭川柳においては「余技」と捉え得るものであったかも知れない。しかし、上記の著述は、川柳作者であり、点者、編者としての業績と知識に根差したものであることは疑いがない。緑亭川柳の変わり百人一首編輯者としての業績は、看過することができない重要な意義を有している。

 『義烈百人一首』は本家の『百人一首』に同じく、武門において名を残す歌人百名を選出して和歌一首を掲載する秀歌撰である。翻刻に際して底本とした上田市立上田図書館・花月文庫の一冊(百人一首114)は中本一冊(タテ18、4×ヨコ12、1㎝)。表紙題箋に「義烈百人一首 全」とある。なお、花月文庫には同一の書目がほかに目録・百人一首24の一点が存する。

 『義烈百人一首』は、多くの『百人一首』の版本に倣って、掲出和歌の箇所に歌人の肖像画を付している。画については、本書奥付に

画工  口画五頁自二十一至三十  前北斎卍老人

仝   自壹至十         一勇斎国芳

仝   自十一至二十       一猛斎芳虎

仝   自三十一至四十      玉蘭斎貞秀

仝   自四十一至五十      一陽斎豊国

と記され、五人のが画工が分担で彫刻したことが知られる。この方法は、『贈答百人一首』において採用されているもので、当時一流の画工たちの挿絵が読者にとって魅力的であったこと、また、短期間での上梓を可能とするためにも有効なことであったと思われる。

和歌に関連して頭注が付されていることも緑亭川柳の著述の特色の一つで、本書においても歌人の略伝や逸話を叙した頭注は読み物としての魅力を備えたものとなっている。「一人一首の趣きを以て本領とする百人一首というよりは、上欄の逸話小伝と呼応して、読みものとしての効果をあげている。かるたへの向きをとらないで、読みものとしての本領を発揮して来たのである」という、伊藤氏(同前)の指摘するところは本書において際立っている。

 掲出の和歌、歌人についてみると、巻頭に鎌倉三代将軍の源実朝を配し、巻軸の百番に加藤清正が置かれている。加藤清正は永禄五年(1562)の生まれで、没年は慶長十六年(1611)、採択の範囲は江戸時代以前となり、徳川の時代を取り扱うことをしていない。その中で、四番の「卿の君(郷御前)」に始まり、九十九番の「細川候夫人( 細川ガラシャ)まで、二十四名の女性を採択していることが特色と言えよう。緑亭川柳の自序にも「共にきえにし列女のことの葉涙に添て幸に流れしも多きをゆはへの雲跡なくせむはほゐなく義列百首となして、童蒙の慰草とす」とあり、女性を積極的に採択しようとしたことが窺える。緑亭川柳最初の変わり(異種)百人一首である『英雄百人一首』では、女性はわずか三名に過ぎない(31番・巴女、39番白拍子静、73番・伊賀局)。女性を多く採択することは、『烈女百人一首』の編輯において感得したことであろうか、貞節を守って男性の武将よりも勇猛な最期を遂げた女性たちを多く取り上げることによって、読者の心を強く惹きつけることを狙ったものと思われる。なお、本編である百首に先立つ口絵には、大彦命が北陸道を下向の折の和耳坂での逸事、日本武尊が相模国より舩にて上総へ渡ろうとした時の逸事、九郎判官義経が平家追討のため一の谷に向かった折の臨機応変の知略について、後鳥羽院が承久の乱に敗れて隠岐に配流されるときの逸事などが叙されている。