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[表紙]
義烈百人一首-1

義烈百人一首 全

(改頁)

義烈百首序
[内題(陰刻)]
義烈百人一首-2

[内題(陰刻)]

東都書肆

錦耕堂梓

義烈百人一首 完

緑亭川柳輯

諸名家集筆

画図精密

(改頁)

義烈百首序

哥言其志故使誦者其善心

画皃其依故観者想其風采

然而哥者詞意婉曲非幼子少

婦之所能觧(セン)画則披賢了然凡

有目者皆可以弁貴賤淑慝(トク)之

分矣是以合二者而後可以得

全勧善之道川柳翁所著義烈

(改頁)

      
義烈百首序
義烈百人一首-3

百首写其肖像又係以其哥可

謂勧善之道備為(?)於戯翁之憂

世也其亦厚矣刻成請序拾余

余嘉其志贅数言拾其端而与

嘉永二已酉冬

尾陽 文嶺原田記撰

雄多島芳蘭女書

(改頁)

百人一首の和歌は小倉山の時雨ふりにし古より世につ(た)

はりて老齢の翫ひとはなれり、しかるに此頃様の

京のよりよりに異なるしもさまの哥まてこれになそらへ

梓にせしは驥尾の蠅の千里を行幸ひを得しなるへし、

猶浦迄にやく藻しほのかき余せるをとり、湖に居る

みさこの閑に習ひ、網に洩たる億をもとめ、岩根の

松のこほれを拾ひ、鎌倉山の昔より吉野の宮の

跡たえし草かくれの色あたなる花の残りを集

(改頁)

義烈百人一首-4

るに、良将英士の鋒を携へて楯の*にすたき

または野原の雪の先たつ詠をしるへにして

共にきえにし列女のことの葉涙に添て幸に流

れしも多きをゆはへの雲跡なくせむはほゐ

なく義列百首となして、童蒙の慰草とす、かきさま

拙けれは瓦礫に類すとも、さはりある事蹟

なれは玉となして*なんことをこふのみ、

嘉永三年春   緑亭川柳

(改頁)

義膽貞肝忍苦辛令

名奇績照穹旻請看

端力*精効豈尽*

資聖哲心

尾陽 文嶺道人

(改頁)

[口ノ二丁オモテ]
[口ノ一丁ウラ]
義烈百人一首-5

[口ノ二丁オモテ]

人皇十代崇神天皇磯城瑞垣離宮にましまして諸国に四道将軍をつかはし給ふ御時、北陸道に大彦命(おほひこのみこと)下りしところ、和耳(わに)坂といふほとりに、其容(かたち)美しき童一人ありて道のかたはらに立、うるはしき声にて

みまきいり見えはやはのがおヽしせんとすヽぐをしらにひめなそみすも

此歌を三度うたひて童は失たり、大彦命心に解がたければ道より帰りのぼりて是を奏聞す、

(改頁)

[口ノ一丁ウラ~口ノ二丁オモテ]

天皇御姨倭迹々日百襲媛命に問給ふに答給ふて、此歌の心は帝に叛者(そむくもの)ありて軍を起さんとす、しらでおはしますかや、女をかたらひて謀反を起すといふこと也とあれば、夫より手分して詮義し給ふに、武埴安彦といふ者むほんを起し、その妻吾田姫と計りて王位をかたむけんとすることあらはれて忽軍を遣はして是を討たひらげ給ひて、御代豊也、是等のふる事によりて和歌は国の補佐となるといひつたへたり、

(改頁)

[口ノ三丁オモテ]
[口ノ二丁ウラ]
義烈百人一首-6

[口ノ二丁ウラ~口ノ三丁オモテ]

景行天皇四十年の時、東国の夷(ゑびす)王命にそむきければ是をたひらげんと官軍をむけらるヽに、日本武尊(やまとたけのみこと)を大将として御手づから斧鉞(ふえつ)をさづけ給ひければ、尊駿河の凶賊を討、相模国より舩にて上総へわたらんとしたまへる折から、海面を見給ひて、いとちひさき海かな、躍ても越ぬべしと高言したまひしに、沖中に至り給ふ比、俄に風おこり波あらく御舩たゞよひていとあやうし、妃の橘姫と申すは尾張の穂積忍山宿祢の女にて御同舩なりしが、此波風たゞことにあらず、海神のあらふる怒なるべし、わらはが身を海に入て君を渡したてまつらんと入水し給ふ、此時尊おどろき止給ふに、御衣(ぎよい)の袖ちぎれて御手に残り、波静りければ尊筆を染て

きみさらず 袖しが浦の たつ波に その面影を 見るぞかなしき

夫より御舩のつきしところを君さらづ浦といひ、今略してきさらつといふ、御舩のり渡したる海を走水(はしりみづ)といふも此時よりのことなりしとかや、

(改頁)

[口ノ四丁オモテ]
[口ノ三丁ウラ]
義烈百人一首-7

[口ノ三丁ウラ~口ノ四丁オモテ]

寿永二年の春、九郎判官義経、平家追討のため一の谷にむかはれし時、敵勢強くして容易に落がたきをしり、山手より攻んと千草山へまはり押行しに、深山に入りてさらに道を失ふ、義経工夫をこらし、後撰集の歌に

ゆふやみは 道も見えねど 故郷は もとこし駒に まかせてぞゆく

これ管仲がふる事をよみたる歌なり、是にて思ひいだしたりと白あし毛なる老馬を引出し、かゞみ鞍置て先にたて、とかくして道を得て難所を落し、誉れを後世にのこせしは、機に応ずる智略といふべし、されば義経よみおきし軍歌の中にも

若武者は 軍の行義 ふることも 功者の人に かたらせてきけ

(改頁)

[口ノ五丁オモテ]
[口ノ四丁ウラ]
義烈百人一首-8

[口ノ四丁ウラ~口ノ五丁オモテ]

承久の乱に官軍勝利を得ずして後鳥羽の上皇、隠岐の国へ遷幸ましましてのち、葛田の里にて時鳥の啼けるを聞しめして、都の昔をおぼし給ひて

なけば聞 きけば都の 恋しきに 此里いでよ 山ほとヽぎす

斯詠ぜさせ給ひしより、此辺の時鳥さらに声ををいだす事なかりしに、百十余年の後、元弘二年、後醍醐天皇北条高時が為に此嶋へ流され給ひける時、此ところには「時鳥はあらざるやと御尋ありければ、里人答へたてまつりて、昔後鳥羽院の御製にてほとヽぎす啼ざるよしを奏しければ

きく人も 今はなき世に 時鳥 たれをうらみて なかぬこのさと

斯御製を遊しければ、又時鳥啼出しける、止るも啼も和歌の妙感ずべきことなりけり、

(改頁)

01_源実朝公
[口ノ五丁ウラ]
義烈百人一首-9

[口ノ五丁ウラ]

***堂

たらちねを とはましとおもふ ふるさとも わすれてつらし ものヽふのみち

(改頁)

01_源実朝公(みなもとのさねともこう)

君が代は なほしもつきじ 住吉の 松はもヽたび おひかはるとも

【頭注】

実朝公は源二位頼朝公の二男にて千幡君と申、建仁二年将軍宣下あり、和哥をよく詠て家の集を金槐集といふ、建暦二年、夏日でりして七月にいたり雨ふりつゞきて洪水して民のくるしむを歎き、我赤心のもことをもて神をいのらんになどかしるしのなからんやとて

ときにより 過れば民の なげきあり 八大龍王 あめやめたまへ

斯詠せられしに、俄に雲吹はらひ日のてりわたりしこと感ずべきことなり、又深き心のある哥のよしにて

いとをしや 見るに涙も とゞまらず おやもなき子の 母をたづぬる

(改頁)

03_八田知家
02_紀伊守範光
義烈百人一首-10

02_紀伊守範光(きのかみのりみつ)

時鳥 なほ一こゑを 思ひ出よ おひそのもりの 夜半のむかしを

【頭注】

紀伊守範光は寿永の大乱に平家都落の比、四歳になり給ふ皇子を軍兵ども取奉りて西国へ落けるを、範光道に走りつきて取かへし奉り都に引かへす、其のち法皇より御召ありて此皇子御位に定まらせ給ふに後鳥羽の帝是なり、これひとへに範光が功なるに、年月はるかにたてども、誰申上るものなきや、空しく埋れてゐしを範光ほいなきことに思ひ、此「時鳥」の哥をよみしに、帝これを聞しめされ此哥の心を尋させ給ひ、其いさほしを初てしろしめし、心づかざりしを侮思しめしていそぎ範光を召て

くれかヽる 山田のさなへ 雨過て とりあへずなく ほとヽぎすかな

此御製を賜り御恩を厚くほうじ給ひける、歌の徳感ずべきことなり、

(改頁)

03_八田知家(やつだともいへ)

夏の野の 草下がくれ 行水の たえぬ思ひは あるとしらずや

【頭注】

八田判官知家は後法体して筑後入道といふ、権頭宗綱の子也といへども、実は義朝の落胤なりといふ、ある時、将軍実朝公不時に上洛有べきよし申出給ふに、そのころ打続凶年ゆゑ民の苦み甚しければ各(おのおの)禅定あるに、御気色を恐れて諫申す人なかりしに、知家御前へいでて申上けるは、天竺の獅子と申すは獣の王なればほかの獣を脳さんと思ふ心なしといへども、獅子の吼る声をきくときは余の獣は肝を失ひ命を絶もの多し、君は民を憐給ふゆゑ脳さんとの思召はなけれども上洛ましませば民の歎なからんや、これ獅子の声に獣の痛むがごとしと申上ければ感じ思召、上洛は止り給ひぬ、一言を以て民を助る知家の才おしてしるべし、

(改頁)

05_文覚上人
04_卿の君
義烈百人一首-11

04_卿の君(きやうのきみ)

つらからば 我も心の かはれかし など憂き人の こひしかるらむ

【頭注】

卿の君は久我殿の息女なりしが、幼より父母におくれ、乳母の十郎権頭かしづきて成人の後、はからずも判官義経と契りをむすび、たゞならぬ身となりしころ、義経鎌倉殿と不和になり都にも住がたく北国落の砌り、弁慶を使に遣せしにけうの君悲み此哥を詠ぜしを、弁慶もあはれに思ひ捨置がたく山伏の姿にして同道せしに、旅行の艱苦の中にも哥を詠じて義経の心を慰む、帰雁を見て

春をだに 見すてヽ帰る かりがねの 何のなさけに ねをばなくらん

その外、紀行のよみ哥多し、出羽国亀わり山にて若君を産みちのくまでの道、海路の波枕に夢をおどろかし、山路の険阻には袖に露おき、貞烈に心を砕きその辛苦ことばにつくしがたし、

(改頁)

05_文覚上人(もんがくしやうにん)

嬌しさも 都に出し そはいかに 今は帰りて かたるおひせを

【頭注】

文覚上人は遠藤武者盛遠とて上西門院の北面なりしが、十八歳にて出家せり、心あらき人故遠き嶋根に流されしが、召返されてある哥よみの方より

わかれしを かなしと聞し 老の身の 今までありし うれしさはいかに

此返哥に文覚は此哥は詠り、又此上人

世の中に 地頭盗人 なかりせば 人の心は のどけからまし

これ業平の春の心といふ哥にはよみ増りたりとて自慢せられし、あるとき

よの中の なりはつるこそ かなしけれ 人のすり(ママ)かは わがすり(ママ)ぞかし

文覚此哥を定家卿の許へ持参し、此うた世を諷ずるに似たれどもさにあるべからず、文覚がことをいふ也、人の咎あるべからずと申ければ、定家卿も無心の哥にあらず、殊勝の歌なりと誉られしとなり、

(改頁)

07_塩屋右兵衛尉信生
06_阿野全成
義烈百人一首-12

06_阿野全成(あのヽぜんじやう)

ゆふざれば 玉ぬく野辺の 露ながら 風にまづちる 秋萩のはな

【頭注】

阿野法橋全成は頼朝公の弟なり、母は常磐御前にて今若丸といひし人也、醍醐に住て悪禅師隆超と号し、勇猛衆に越る、此人の詞に人神を祈求めんよりは父母に孝を尽さんにはしかじ、則両親は天地の神、内外の御社なり、おろかにも月日ををむなしくあらん人、よろづ思ふこと心のまヽなるべからずといへり、建保七年実朝公他界の後、公暁も討れて世上の風聞に阿野全成は源氏の正統にして手張人なれば、鎌倉殿にもなり給はんなどのヽしる者あれば、北条義時安からず思ひ討手を遣して攻られけり、全成身に誤りはなけれども陳ずるに及ずとて、散々に戦ひて討死し、勇名を世に顕せり、

(改頁)

07_塩屋右兵衛尉信生(しほやうへうゑのぜうのぶなり)

よしさらば 我とはさヽじ 海士小舟 みちびく汐の 波にまかせて

【頭注】

塩屋右兵衛尉は頼家公の真価なりしが、比企能員がことによりて頼家公も若君もかくれさせ給ひしをかなしみ、無常を観じて出家せんと出しとき

まよひこし 心のやみも はれぬべし うき世はなるヽ よこ雲のそら

黒谷にいたり法然上人の弟子となりて信生法師とあらため道徳ありし人なり、法然上人入滅の後、破撰釈の論より山門の大衆怒りて上人の廟を崩し亡骸を加茂川流さんと群来りしを塩屋信生同輩と斗り法師の身にて兵杖に携るは心ならねど勇をふるつて衆徒を追かへし棺を改葬して嵯峨へおくり、功を顕し遺骨を納て後、あみだ経六万護念の心を

おく露の 染はじめける ことのはに 四方の時雨や いろをそふらん

(改頁)

09_熊坂張範
08_平泉助公
義烈百人一首-13

08_平泉助公(ひらいづみぢよこう)

昔にも ならざる夜半の しるしには こよひの月し 曇りぬるかな

【頭注】

助公法師は奥州平泉無量光院の住侶なり、頼朝公泰衡征伐の時、此僧も彼等が内縁あるよし申て搦来る、是泰衡が跡をしたひて鎌倉殿にそむき奉り、和歌をじゆし、ないがしろにいたすのよし風聞あるに依てなり、梶原景時を以て是を糾問せらるヽに助公すこしもおどろかず夫当山は清衡より四代仏法恵命をつぐ、しかるに過つる九月三日泰衡ほろび、同十三日の夜天曇り明月あきらかならざるゆゑ昔にも似ぬ夜はの月のくもりぬるよと懐旧を催し此哥は詠しなり、さらに異心なるにあらずと申ければ、梶原感じて頼朝公へ達免助を蒙る、これも和歌の徳にてたすかりしなりけり、

(改頁)

09_熊坂張範(くまさかてうはん)

高野山 峯の嵐の 烈しくも このははのこれ 後のかたみに

【頭注】

熊坂張範は美濃尾張を往生せし強盗なれども、つよきを砕き弱きを助る義勇の者也、常に手下の者どもつどひ来て豪家に押入らんといふとも、彼家の実否を尋て曰、年久しく相続する大家は必法令たゞしく仁を積ものゆゑ神明の守あり、容易に入るとも利あることなし、また久しからぬ家の俄に冨るはきはめて非義非道あるものにて、人その奸を恨ゆゑ天の憎む所あり、是を奪ふこと心安しといへり、張範ある時、高野山に上り爰かしこ伺ひ見て霊廟の尊さに思はず菩提心を起し、かヽるあさましき身なりともせめては後世を助りたく思ひ、向ふ歯一本打をりて骨堂へ投入、此歌を詠しは業に似ぬ優美なりけり、

(改頁)

11_白拍子微妙
10_北条朝時
義烈百人一首-14

10_北条朝時(ほうでうともとき)

こぬ人の 面影さそふ かひもなし ふければ月を なほ恨つヽ

【頭注】

北条朝時は義時の子にして名越遠江守といふ、此人の詞に戦の要といふは、敵の行ひをよく察し味方の行ひを勘弁し、又敵将の気を察し我勢の気を烈し戦へば百戦すといふとも百勝の理ありといへり、されば有道を行はれ国政の柱とも頼べき人と沙汰せしかども多病にして剃髪の身となり真昭法師と号す、寛元四年四月六日に卒す、よみ哥数多の中に

まよひこし やみの現の なごりとて 見ゆとは見へぬ 夢もうらめし

さだめなき 時雨のあめの いかにして 冬のはじめを そらにしるらん

いく里の ゆふつげ鳥に わかれきぬ おなじ旅寝の あかつきのそら

(改頁)

11_白拍子微妙(しらびやうしみめう)

片岡に ふせる旅人 あはれ今 たづぬる里に 宿もさだめず

【頭注】

微妙は右衛門尉為成が女なり、建久年中、父為成讒人のために禁獄せられて奥州へ流刑せられ、其妻も愁歎の余り死す、その時、微妙七歳、親族なく多年父を慕ふて白拍子となり鎌倉に来りて此哥は詠ぜり、将軍頼家公比企能員がもとにて微妙が舞を御覧ありて御感の余り其願ひを問たまふに、泣しほれてことばなく、やヽ有て父が難義のことを申上ければ、憐に思召給ひて奥州へ使を遣し、為成を召かへさるヽに、為成去年死去せしよし申来る、微妙聞て悲しみにたへず尼となり寿福寺に行、持運と号す、父母の跡をとふこと殊勝なれば、二位の尼君不便に思し営中に度々召れ、深沢の里に庵室を給はり其誠心を感じ給ひけり、

(改頁)

13_佐渡前司基綱
12_松嶋局
義烈百人一首-15

12_松嶋局(まつしまのつぼね)

あぢきなく 子の日にもれし 野辺の松 いつかひかれて 春にあふらん

【頭注】

松嶋の局は佐渡守親泰の女也、実朝公の御産所に仕へて容色無双の美人なり、和田家より朝比奈義秀の妻にせんと願ひけるに、実朝公免許ありて事極る比、北条の一族より此女に恋慕の者ありて、尼御台(あまみだい)に願ふ、是によりて種々妨ありて騒動に及び、和田へ嫁す事延引して尼公の方へ預りおき給ひ、尼公は北条の方へ縁づけんと計り給ふ、松嶋病床に打ふして

はりつめし 胸の氷の 薄からで とけんあさ日の めぐみすくなき

尼公のことばにしたがへば義秀に不貞となり、御意を拒めば不忠となれば、ぜひなく朝比奈へ貞操をたてヽ自害して果る、その齢ひわづかに十八歳、をしまぬ者はあかりしとかや、

(改頁)

13_佐渡前司基綱(さどのぜんじもとつな)

篠の葉の さやぐ霜夜の 山風に 空さへ氷る ありあけの月

【頭注】

佐渡前司基綱は将軍頼経公に仕へ常に政務に携はり依怙なき人なり、仁治三年の冬、将軍家基綱が大倉の屋敷へ御成あり、和歌管絃の御遊あり、素より此所は閑寂にして幽栖なり、古松枝をたれて千とせの色を見せ老槐葉茂りて万世の徳をあらはし、景色面白く岩をたヽめる中より静に落る瀧の糸は詠める人の心を繋ぎ、さまざまの御遊に将軍興をもよほされ鶏鳴に及びて還御あり、基綱見送り奉りて家に帰り、たゞちにさみしきまゝ四方の空をながめて此哥はよみけるとなり、休らふころ霰ふりければ

やゝむすぶ 夢もあられの 閨のうへに いやはかなにも 音たてゝゆく

(改頁)

15_駿河守重時
14_高橋種次
義烈百人一首-16

14_高橋種次(たかはしたねつぐ)

吹風に さそはれてゆく 浮雲の こヽろのかろき 身こそやすけれ

【頭注】

承久二年一院大事を思し立たまふ比、武蔵国の住人真柴太郎官軍に参り、美濃路にて討死す、其子春栄十一才なりしを鎌倉に引出し既に誅せらるべきところ、若宮の別当申乞ひて命助り高橋左衛門種次貰ひとりて養子とし源三種次と名のる、然るに養父種直無実の讒にて執権時房のうたがひをうけ領地を召放されて流浪す、夫より種直重病を煩ひけるに、種次孝心深く昼夜病床を去らず仕へけるに、日を経て父種直死去す、其後養母に孝を尽しけるに、此母心あらあらしく種次を杖にて打こと常也、されども薪水の労いとはず数年孝をつくし養母も死して後、愁ひにしづみ出家して立出るとき此哥はよめり、

(改頁)

15_駿河守重時(するがのかみしげとき)

思ひあれば たのめぬ夜半も 寝られぬを 待つとや人の よそに見るらん

【頭注】

佐渡前司基綱は将軍頼経公に仕へ常に政務に携はり依怙なき人なり、仁治三年の冬、将軍家基綱が大倉の屋敷へ御成あり、和歌管絃の御遊あり、素より此所は閑寂にして幽栖なり、古松枝をたれて千とせの色を見せ老槐葉茂りて万世の徳をあらはし、景色面白く岩をたヽめる中より静に落る瀧の糸は詠める人の心を繋ぎ、さまざまの御遊に将軍興をもよほされ鶏鳴に及びて還御あり、基綱見送り奉りて家に帰り、たゞちにさみしきまゝ四方の空をながめて此哥はよみけるとなり、休らふころ霰ふりければ

玉ひらふ ゆらのみなとに てる月の ひかりをそへて よする白なみ

さゞなみや ながらの桜 ながき日に ちらまくをしき しがの浦かぜ

はつ霜の する里さむき 秋風に たゆむ時なく うつ衣かな

あふまでの 人の心の かた糸に なみだをかけて よるぞかなしき

(改頁)

17_尾藤景綱
16_東胤行入道素暹
義烈百人一首-17

16_東胤行入道素暹(とうのたねゆきにうだうそぜん)

寝ぬに見し 昔の夢の 名残とて 老の涙に のこる月かげ

【頭注】

東中務入道素暹は千葉介常胤の孫にして武勇の人なり、承久二年より美濃国郡上を拝領して知行せり、宝治二年上総権介秀胤逆意を企一の宮大柳の城に籠りし時、素暹入道討手に向ひたちまち城を攻落し功名を顕す、天ねん和哥に妙を得て此家代々哥人なり

素暹あづま路におもむかんといでたちし時、実松公より

おきつなみ 八十嶋かけて すむ千鳥 こヽろひとつに いかゞたのまん

素暹かへし

はまちどり やそしまかけて かよふとも すみこし浦を いかゞわすれん

又、道より

すみなれし みやこを何と 別れけん うきはいづこも わが身なりけり

(改頁)

17_尾藤景綱(びとうかげつな)

草葉のみ 露けかるべき 秋ぞとは 我袖しらで おもひけるかな

【頭注】

尾藤下野守景綱は智勇ある人なり、寛喜二年正月晦日の夜、鎌倉中騒動して諸方の武士甲冑を帯、旗を揚て御所にはせ来ることあり、いかなる者の風説せしや、御所に逆意のものあり、是を退治せんと警固のため参るといひて軍兵群集す、町人どもは資材をはこびて逃まどひ、混雑の中に盗賊もありて人声天地にひゞき中々穏便ならず、此とき、尾藤景綱御所より出て馬に打のり謀反人こそしれたり我につゞけと喚りながら浜辺をさしてのり出す、心得たりと諸士跡に付て走むかふ、これむほん人あるにあらず、景綱がはかりごとにて御所の人数を引せしなりけり、此人文武ともに才かしこく世に賞せられし人なり、

(改頁)

19_北条政村
18_上野十郎朝村
義烈百人一首-18

18_上野十郎朝村(うへのじふらうともむら)

ゆふかけて 卯月にまつる 神山の ならの木蔭に 夏は来にけり

【頭注】

上野十郎朝村は其比名誉の弓取なり、暦仁元年、将軍頼経公上洛の御供して上京す、頼経公は右府良実公の亭にて御弟福王君に御対面の折から、飼置給へる小鳥籠より飛出て庭の橘の木に止る、若君深く惜せ給ふ、頼経公その時、朝村を召て小鳥の痛ざるやうに射て奉れとあれば朝村畏りて引目の目柱二つ削りさし挟て伺ふに、木の葉茂り小鳥の姿すこし見ゆるにかなたこなたと見定めて矢を放つに、小鳥は声をとゞめて、矢は庭上に落たり、立寄てこれを見るに、小鳥を引目の中に射込てあり、目柱を削りしは此ためなり、もとの籠に鳥を入て奉れば座中感ずる声止ざりけり、将軍御衣を給はり一時の面ぼくをほどこせし人なり、

(改頁)

19_北条政村(ほうでうまさむら)

ひと声に あくるならひの 短夜も 待つに久しき ほとヽぎすかな

【頭注】

北条政村は廉直なる人にて文応元年宗尊親王将軍となり給ひてより長時と此政村と政務をとり鎌倉静なり、この人常に近士のものに語ていはく、人の生立は童の時より手習、読書、射芸、剣術の稽古さらにいとまなきほど言付よ、いとまあれば雑慮の起りてあしき事を振まふたよりとなる、譬へば人をふむ馬も走るときは踏ず、足にいとまなきがゆゑなり、たゞ立てゐるときは足にいとまあるゆゑ踏ものなりといへり、弘長三年二月政村が亭において将軍宗尊親王一日千首の和歌の御会あり、政村も詠吟多くありて勅撰に入り名を遠近にしられたり、

(改頁)

21_小串範秀
20_武蔵守長時
義烈百人一首-19

20_武蔵守長時(むさしのかみながとき)

頼むるを また偽と おもひても 猶わすられぬ 夕ぐれの空

【頭注】

北条長時は康元元年、最明寺時頼世を時宗に譲りしより政村と二人捕翼として政道を佐く、此人小鳥を飼ふことを好みしが、あるさふらひの方より美しき籠に蒔絵して小鳥を入ておくりければ、長時思ふやう仮りにも政事に携はるもの物を好むまじきことなり、このめば人賄賂の種とすとて、同列の客の前にてことごとく放ち飛せける、人そのゆゑをとふに、譬ば小鳥の音を楽しむは牢の中なる罪人に唄うたはせて聞にひとしく、彼が為には謡ひたはぶれるよりは追放されしが、嬉しかるべしといひけるとなん、文永元年の秋、病床にゐて

さびしさは いづくもおなじ ことわりに 思ひなされぬ 秋の夕ぐれ

(改頁)

21_小串範秀(をぐしのりひで)

見し友も あるがすくなき おなじよに 老の命の なに残るらん

【頭注】

小串右衛門尉は勇猛の誉れあり、永仁、正安の比の人なり、領知若狭にありしとき、大川の末落合ある所にて舟遊山せしに、召倶素したる童釣竿を持、舟端に立てゐたりしが、大なる鰐(わに)水底より出て童にとびつき海に引入れけるに、範秀大きに怒りて目前家来をとらること無念なりと赤裸になり二布に脇ざしをさし水底に入て尋ねけるに、鰐はかの童をくはへて大岩の洞の如くなる所に息を吹ゐたり、範秀たちまち鰐に近より刀を咽(のど)に突つらぬき力に任せてゑぐりければ、鰐も浮上り童の死骸も取得たり、其ふるまひ凡人の及ぶ所にあらずと人々舌をまきて誉けるとなん、

(改頁)

23_土佐大平
22_宗尊親王
義烈百人一首-20

22_宗尊親王(むねたかしんわう)

むら雲の 跡なきかたも しぐるヽは 風をたよりの 木の葉なりけり

【頭注】

宗尊親王は鎌倉将軍とならせ給ふといへども、北条の権威日に増募、御心の儘ならせられず、御歌もよく遊しけれども御よみかたよろしからずと、為家卿度々御諫申上しとかや、百首遊しける中に

とらとのみ もちゐられしは 昔にて 今はねずみの あなう世の中

此歌を為家卿判ぜさせたまひてあさましく御身の上危かるべしと諫申せしが、果してまさなきこといできて鎌倉にもおはしまさゞりけり、これ三浦若狭前司泰村が叛により虚名をうけ給ふことによりてなりといふ、さるゆゑにや北野にて右近の馬場の雪を御らんじて

なほたのむ 北野の雪の 朝ぼらけ 跡なきことに 埋るヽ身は

(改頁)

23_土佐大平(とさのおほひら)

けぶりたえて すゝけたる身も あるものを 蚊遣りに白き 夕顔の花

【頭注】

元弘の乱れに後醍醐天皇の一の宮中務卿親王土佐の国にさすらひ給ひ、そこ爰と御遊歴ありしに、目なれぬ山里のみにて人の言説もわからず鄙にいたりては男女の姿さへ見わくべき所なくあはれにわびしきことのみにつけ、みやこ恋しく思めし、里人に問給ひて、此ほとりには武士はなきやと御尋あるに、是より二里南にゆかせ給はゞ守護職大平と申者候とあれば、かしこにたどらせ給ひ則此大平が家に入て

とさの海に 世をうき草の 流きて よるべなき身を あはれともとへ

此御哥を聞て返しを奉る

あはれとも しらねばいかで 思ふべし とさの入江の もがくれにゐて

此子孫、今に彼国に連綿たりといふ、

(改頁)

25_土岐伯耆守頼貞
24_上杉重能
義烈百人一首-21

24_上杉重能(うへすぎしげよし)

とはずとも さわるとせめて きかすなよ まつを頼の 夕暮のそら

【頭注】

上杉伊豆守重能は足利家の功臣也、建武二年尊氏かまくら合戦に利を失ひ勅勘をうけて出家し給ふべきに、定る所重能諫て軍法には勅命をも恐れず、正直も時によるへしと似綸旨をしたヽめたまへば、尊氏一家出家せしむともゆるさじとの勅なり、是を尊氏に見せ参らせ出家を止させ、軍の評義有て終に利運を得たり、同三年筑紫へ落ける時も菊地に戦負て切腹せんとせし所を重能おしとゞめ軍は勢の多少によらず、只天運に任すべきなり、漢の高祖は廿八騎にて項羽の百万騎を破り、頼朝公は七騎にて天下に其名を上給へり、短慮も時によると重能がいさほし也、されば足利家一の功臣といふべし、

(改頁)

25_土岐伯耆守頼貞(ときはうきのかみよりかず)

峯にたつ 雲もわかれて 吉野川 あらしにまさる はなのしらなみ

【頭注】

土岐頼貞は足利尊氏の臣下にて筑紫落の時、生死を共にせんと同道して下り、彼所にて功をあらはし、建武三年五月都上りの節、観音利益の報恩の為、尊氏備後尾の道浄土寺へ三十三首の和歌奉納せられし時、頼員の詠吟

能滅諸有苦

我としる 心のなくは 人の身に うれひなげきも あらじとぞ思ふ

如日虚空住

中ぞらに ゆくとも見えず 閑にて あほげばたかき 日の光りかな

樹甘露法雨

一たびも そヽげば四方の 草木まで わか葉さしそふ 春雨のいろ

福寿海無量

拾ひおく 数こそしらね いせの海の きよきなぎさに 玉をあつめて

(改頁)

27_大高重成
26_六角左衛門氏頼
義烈百人一首-22

26_六角左衛門氏頼(ろくかくさゑもんうぢより)

いたづらに 待はくるしき 偽を かねてよりしる タぐれもがな

【頭注】

六角氏頼は数度戦功ありし人也、尊氏軍利を失ひて筑紫まで落給へども氏頼は東国勢を支へんと千騎にたらぬ小勢にて備前三つ石に止り大軍を喰とめたる将なり、建武四年、尊氏京都在陣の時、奥州の国守北畠顕家卿十万の勢にて責上り支へがたきを氏頼近江、美濃の堺まで押出し、韓信が背水の例を引き黒地川、をとし川を後に当て陣取り、大軍と戦ひ勇を震ひ、又応安二年の夏、山門日吉の神輿(しんよ)入洛の日、大内を守護して山徒を追払ふ、此賞によりてかたじけなくも従四位下に昇殿を加へ宸筆を賜る、そのヽち江州を領して勇威を近国にふるふ、

(改頁)

27_大高重成(おほたかしげなり)

都には まだしき程の 時鳥 深き山路を たづねてぞきく

【頭注】

大高伊予守重成は足利家無二の忠臣也、貞和五年、執権高師直足利真義と不和になり直義室町の御所に入りしかば、師直御所を囲み攻ける時、大高は一番に御所へ走つき師直が勢を防ぎ勇をあらはし、そのヽち鎌倉基氏に付て芳賀入道と戦ひの時、武蔵野にて武勇をあらはし大将基氏乱軍に馬を射たほされ歩行立になりて既にあやふき所に重成はるかに是を見て真一文字に走つき是に候人と我馬に大将をのせ重成は敵の馬武者をえらみ討にして馬を分捕してのりしを、基氏大いに賞して天晴ゆヽしき働かな、今こそ誠に大高の名は相応したりと太刀をそへて領知の判物をたまはりしとかや、

(改頁)

29_菊地次郎武士
28_道場坊祐覚
義烈百人一首-23

28_道場坊祐覚(どうじやうばうゆうがく)

おほかたの 年の暮ぞと 思ひしに 我身のはても 今宵なりけり

【頭注】

道場坊助注紀祐覚は法勝寺の律僧なりしが、後醍醐天皇隠岐国より伯州舟の上山へ還幸の砌り、但馬にて是を聞、早速舟の上へ走付大衣を脱て山徒の貌にかへ弓箭を携て一時の道を開き都へ供奉して戦忠を尽し、その後尊氏朝敵となりし時、主上を山門へ臨幸ならしめ後、官軍利を失ひ、主上御和睦の御供にてありしを、尊氏主上を花山院へおしこめ参らせ、四門を閉て警固のすゑ、降参の武士を悉大名へ預けける砌、祐覚は山徒の張本なりとて、十二月廿九日切腹せしむ、祐覚わるびれもせず、この哥を書て法勝寺の上人におくり勇名をのちの世にのこしぬ、

(改頁)

29_菊地次郎武士(きくちじらうたけひと)

しのばれん 折ふしごとの ことの葉を あはれのこせる 水茎のあと

【頭注】

菊地次郎武士は寂阿の孫なり、父肥後守武重は忠義勇烈の将にて都鄙にその名隠れなし、武士も箕裘(ききう)の業を継て鎮西に功を顕し、且度々の戦場に士卒の死を悼み幽魂(ゆうこん)も流年(るねん)の末には一丘の塚となりて松風鬼哭のこゑには愁怨み(しうおん)の烟をのこす、是をあはれみ其比の智職大智禅師に追福を頼みしに、禅師その折武士の相を見て驚き足下短命の相あり、出家せば可なりと宣へば、直に応諾して叔父武光に家を譲り出家して徂禅と号し諸国行脚してのち国に帰り寺尾野の桜を見て

袖ふれし 花も昔を わすれずは わが墨染を あはれとも見よ

武士器才(きさい)の人なれば雲水の徒となりてもその名遠近に鳴る、

(改頁)

31_北畠顕家夫人
30_楠正行の母
義烈百人一首-24

30_楠正行の母(くすのきまさつらのはヽ)

世の憂も つらきもしのぶ 思ひこそ 心の道の まことなりけれ

【頭注】

建武の末、楠正成湊川にて討死の後、其首を足利尊氏より送られしとき嫡子正行歎きに沈み持仏堂の方へ行けるを、母怪みてしたひ行見るに、刀抜もち父が首の前にて自害せんとす、母走より取付涙と共に諫て、汝子心にもなどかばかり惑へるぞ、父上桜井の宿より汝をかへし止られたるは跡とはせん為にもあらず、腹きれとのことにもあらず、討死の後は一族郎等を扶持して朝敵を亡し再び主上を御世に立参らせよとの遺言をまはや忘れて父の名を失ひ君の御役にも立ず、うろたへ者めと叱り刀を奪ひければ正行泣沈て詞なし、母も涙ながらしゆじゆ教訓しければ正行心にしみ肝にめいじて武略を調練して南方より軍を起し多年労して父におとらぬ戦して命を君に奉りしは、かひがひしき母の力によりてのこと也、

(改頁)

31_北畠顕家夫人(きたばたけあきいへのふじん)

そむきても なほ忘られぬ 面影は うき世のほかの ものにやあるらん

【頭注】

北畠黄門顕家卿は南朝へ忠を尽し、数度軍功を顕しけれども、暦応元年五月、泉州阿部野に於て討死し給へり、その比、北の方は吉野山に居給ひけるが、浅ましき御別の歎きにあこがれ出給ふとて

いづくにか 心をとめん みよしのヽ よしのヽ山を 出てゆく身は

ほどなく阿部野にたどりつき給ひ、こヽなんわがつまのきえさせ給ひたる所となみだと共に草の上にたふれふして

なき人の かたみの野辺の 草まくら 夢もむかしの 袖のしらつゆ

それより天王寺に詣てなきつまの菩提を弔ひ、我後世をもねがひ亀井の水の辺りの松の木を削りて

のちの世の ちぎりの為に のこしけり むすぶかめ井の 水ぐきのあと

かくて世をそむきゐ給ひけれど、思ひに絶かね食を断てはて給ひしとなり、

(改頁)

33_斯波氏経
32_佐々木高秀
義烈百人一首-25

32_佐々木高秀(ささきたかひで)

聞なれし 木の葉の音は 夫(それ)ながら 時雨にかはる 神無月かな

【頭注】

佐々木治部少輔高秀は足利家に随従して近江を領し数度勇威をあらはす、康安元年細川清氏南朝の味方となり、和田、楠、其外紀伊、河内の軍勢都にせめのぼると聞えしとき、将軍義詮おどろき高秀に摂州へ向ひ支べきよし下知ありければ、手勢を引倶し津国へ下り忍常寺山に陣取り勇を顕して敵を追かへし、そのヽち尾張高経、北国にて義貞を討し後、足利家より鬼丸の太刀を望しに、焼失のよし申て上ざるにより、高経に重き賞なきを恨み、高経直冬に一味して叛しとき、佐々木一類に討手を命ぜられければ高秀衆に抽(ぬきんで)軍略をあらはし敵を北国まで追下し武名を四方にかゞやかせり、

(改頁)

33_斯波氏経(しばうぢつね)

露霜を をかべの真葛 うらみわび 枯行秋を 鶉なくなり

【頭注】

斯波左京太夫氏経は尾張高経の二男なり、足利義詮将軍の世、執権細川清氏叛い

て後、京都に執事なきまヽ諸士その職に置べき人を撰み、此氏経を居(すへ)べきこと評定ありて、将軍もその趣に内々定め給ひけり、然るに父高経は三男治部大輔義将を愛してこれを用ひ、氏経はその器にあらざるよしを申上て廃せしかば、氏経世を憂しとや思ひけん、俄に出家して都を逃れいでぬれば、付したがふ良等二百七十人同時に皆髪を切て墨の衣を著す、才器を人のしたふこと斯のごとし、氏経は父の所存をも破らず、身の名聞をも求めず、道心さむる事なくまことに貴き人にぞありける、

(改頁)

35_大館左馬介氏明
34_藤実勝夫人
義烈百人一首-26

34_藤実勝夫人(とうのさねかつのふじん)

山蔭の くらきやみ路に 迷なん なつみの川に 身を沈めなば

【頭注】

南朝正平六年、南帝後村上院義詮将軍と御和平ありて、住吉、天王寺まで行幸ありしとき、藤の実勝も供奉として吉野を立出ける時、奥に入て夫人に別れをつげ都も静りなば頓て迎へ参らせんと、立出る袖をひかへて夫人

なにとなく 心にかヽる しらつゆの をきわかれゆく 袖のけしきは

実勝あはれを催しなどさは思すとて

わかれぢは 露にはあらず 嬉しさを やがてたもとに つヽみこそせめ

かく別てほどふる内、忽和睦破れて実勝は討死せしと聞て、さればこそ別れの心にかヽりしと歎きかなしみ、おくれてとゞまる我身にあらずと、その夕ぐれ水音をしるべに菜摘川にたどりつき、此哥を辞世として深き瀬に身を沈めて貞操をあらはし給ひぬ、

(改頁)

35_大館左馬介氏明(おほたちさまのすけうぢあき)

をさまるも ことわりなれや 君が世の 恵つきせぬ 敷嶋のみち

【頭注】

大館左馬介氏明は南朝無二の忠臣なり、領所伊予国より逸物の鷹を奉りしに、その比、吉野御所に夜なく化鳥出て鳴わたる怪しきこととて武士に命じて射させけれども、所さだめねばその詮なし、ある時、彼鷹を麓の野辺にて雉子に合せ給ひけるに、雉子には目もかけず山の方へそれゆき、しげみの中に入よと見へしが、大なる黒き鳥を追出し空にて組合落にける、是かの化鳥なれば人々打殺しけるに、七尺余の大鳥にてありけり、此鷹の功をもつて大館へ賞を賜ひぬ、氏明歌を詠て奉りし中に

山川の 岩間の氷 さゆる夜を おもひかねてや 千鳥なくらん

かげたかき みのヽおやまの 年をへて ちりうせぬ松の 世々のことのは

としをへて 思ふ心の かくとだに いのるを神も あはれとや見ん

(改頁)

37_赤松信濃守直頼
36_脇屋義治室
義烈百人一首-27

36_脇屋義治室(わきやよしはるのしつ)

またこんと たのむの雁の 別路は 待間久しき 名残なりけり

【頭注】

観応二年の比、新田の一族関東に蜂起して義貞、義助の鬱憤をはらさんと鎌倉近く押寄るといへ共、利運にかなはず、追々味方退散し時を待折から、脇屋右衛門佐義治は出羽国羽黒山の麓に引籠、蟄してありしに、年月重て南朝の勢ひ衰へ両朝御和睦のよし聞えければ、義治今はのぞみを失ひ出羽を立て四国の味方土居得能と一手になりてともかくもと北国を発足の砌、義治の内室別れを惜み悲みの中にも夫の心をなぐさめ琵琶を弾じ一声霜後の夢万里の別月前の離情のこヽろをしらべ、此哥を詠じてはるかに見送り、そのヽち程ふれども軍の吉左右もはかばかしからねば、不運をなげき刃に伏て貞節をあらはす、いとをしきことどもなり、

(改頁)

37_赤松信濃守直頼(あかまつしなのヽかみなほより)

数ならぬ 身は中々に うきことを ならひになして なげかずもがな

【頭注】

赤松直頼は円心入道の孫にして範資の四男なり、はじめ信濃五郎といひて十三歳の時、将軍尊氏の御供にて中国へ赴きしが、そのころ高倉禅門直義吉野殿と合体して師直兄弟と八幡山に陣どり、石堂、上杉、畠山等これに合体して師直兄弟と将軍の陣を責る、将軍方戦ひに利を失ひ既に皆切腹に及ばんとす、直頼初歩たるによりて助け落さんと言しを、武門に生れ父を捨て遁るヽ法やある、最期の供せんとて此哥をよみ覚悟せし所、饗場命落丸といふ者和睦を取結びて将軍、兄弟御中直りことゆゑなくおさまりぬ、のち直頼伯父則祐の猶子となり武名を諸国にあらはせり、

(改頁)

39_細川満元
38_義満公
義烈百人一首-28

38_義満公(よしみつこう)

たのむかな 我みなもとを 石清水 流れの末を 神にまかせて

【頭注】

義満公は足利三代の将軍にして、応安元年四月八日元服ましまして五月より社稷(しやしよく)の政治事を沙汰に及び、寺社の法を正し濫妨を停止せしめ、国民の愁を救、且、南北朝一統して武家の礼式を定め、永和五年筑紫に赴きて菊地の一族の敵対を破り九州を悉く随へてより、天下普く将軍の命に従ふ、京師穏(おだやか)に復して室町に亭(ちん)を建る、世に花の御所と号す、嘉暦二年冨士遊覧に下向し、応永元年将軍職を御子義持に譲り、同十年大政大臣に昇り、北山に新造を建、金閣寺と号し爰に移り武威を四海にしめし、同十五年五月六日、五十一才にて薨ず、鹿苑院殿と号す、

(改頁)

39_細川満元(ほそかはみつもと)

思はずよ はなをかたみの さがの山 雪の跡とふ 千代のふる道

【頭注】

細川右京大夫満元は応永のころ管領たりしが、将軍義持公薨去のヽち、幼君義量公を補佐して政事をとりしが、此君治世三年にして世を去給ひ、その後義教公御代となり、いまだ世の中静ならざるに、将軍冨士遊覧に赴き給はん沙汰ゆゑ満元諫奉れど押て御下向ありければ、満元是を歎じて悪き君に諫を入るヽ事、龍の髭なで、虎の尾を踏がごとし、甚しければ己を失ふといひて山居に退き、応永三十一年三月二日、故細川常久入道三十三回忌につき、嵯峨の山の墓所にいたり法施を手向しに、をりしも雪のふりければ満元此歌を詠じける、

(改頁)

41_大森左衛門尉氏頼
40_義嗣公
義烈百人一首-29

40_義嗣公(よしつぐこう)

霜結ぶ 野原の浅茅 うらがれて 虫の音よはる 秋風ぞふく

【頭注】

義嗣公は義持公の弟にて権大納言に昇り官爵不足なき御身ながら、佞人(ねいじん)どもの詞を信じ御兄将軍を傾け奉り、大樹の根かためん御心にや鎌倉の満隆並犬懸入道禅秀をかたらひ給ふ節、佐々木六角左衛門満高将軍の御不興を蒙り出仕を止られ居ければ、これを召て密談ありけるに、佐々木は廉直なる人にて強く諫を入れ御聞すみなきに於ては将軍に申上んと諫言しきりなれば、身の誤りを後悔ありて御髪をおろされ相国寺に入て道純と称す、御歳廿五歳にて卒し給ふ、誤て非を改め諫にしたがふは、蓋(けだし)君子の所為なり、

(改頁)

41_大森左衛門尉氏頼(おほもりさゑもんのぜううぢより)

世を捨る 数にさへこそ 洩にけれ うき身のすゑを 猶たのむとて

【頭注】

氏頼は初与市と号し、大森信濃守頼春の嫡子なり、応永二十三年上杉禅秀鎌倉満隆と共に謀叛を起し持氏公の御所を取囲し時、持氏夜にまぎれて逃のび箱根山まで敵跡を襲ひて難義なりしが、やうやう駿河国大森信濃守の舘まで落のびければ、大森父子守護すれども爰も要害浅間なれば府中なる今川上総介方へ御供申、今川と計りて上杉禅秀を亡し、再び鎌倉御所に居人奉りければ、其功労を賞するあまり先祖伝来の氏の一字をたまはり左衛門尉にしなたまひ、重く用ひられければ、その名遠近に聞ゆ、後薙髪(ちはつ)して寄栖菴明昇居士と号す、

(改頁)

43_犬懸入道禅秀室
42_今川上総介範政
義烈百人一首-30

42_今川上総介範政(いまがはかづさのすけのりまさ)

ひとめ見し かたのヽ小野に 苅草の つかのまもなど わすれざるらむ

【頭注】

今川上総介は応永廿三年、上杦禅秀謀反の時、持氏公を補佐して京都へ御加勢を申乞ひぬれば、御籏を給はり追手の大将軍に命ぜられければ、範政関東へ一紙の回状を出し味方を招く、これに応ずる者雲霞のごとし、頓て禅秀を亡し持氏公を鎌倉に還御せしめ御所を造営して其功莫大なれば京都将軍より御教書を給はり、関東副将軍として持氏朝臣を補佐すべきよし命ぜられけり、且又義教公冨士遊覧の時、今川の方へ

見ずはいかに 思ひしるべき ことのはの 及ばぬ冨士と かねてきヽしも

範政此御かへしに

きみが見ん けふの為にや 昔より つもりはそめし 冨士のしら雪

(改頁)

43_犬懸入道禅秀室(いぬかけにうだうぜんしうのしつ)

さなきだに 五つの障(さはり) ありときく 我よりむかふ 罪いかにせん

【頭注】

上杦氏憲入道禅秀の妻は武田刑部少輔信成の女なり、夫禅秀持氏公の不興をかうぶり管領を辞して犬懸に引篭り満隆、持仲と共に大義を企て鎌倉をかたぶけんとせし時、此妻悟りて諫を入れけれども、はや思ひ立て近国の武士味方に走集りければ、今はやむことなく死を夫と共にせんと覚悟を極め程なく密謀利なくして、夫禅秀、満隆、持仲をはじめ宝性院に入て一族良等百五十余人自害してはてければ、今は是までなり、夫の供におくれじと此歌を辞世に書のこし形見の短刀抜放し胸元をさしつらぬき俯伏になりて失しはゆヽしかりける女性なりけり、

(改頁)

45_蜷川新右衛門親当
44_足利義照
義烈百人一首-31

44_足利義照(あしかゞぎせう)

花はいかに つらき嵐と 思ふらん つねにかはらぬ ことしなれども

【頭注】

義照は義教将軍の御弟なり、義教公御行跡よろしからざるを歎数度諫言を入れ奉れど、御用ひなし、義照剃髪して大覚寺僧正と号す、然るに讒臣ありて義照は室町御所を傾んとする企ありと申す者ありければ、義教公大きに怒り、たちまち討手をさしむけ給ふ、義照は病気にてありしが、告る者あれば夜の間に遁れ出、大和法橋を供に召つれ薩摩の国まで落のび給ひて民家に休らひ、すり臼を見てその名を尋られしに土民怪み、よのつねの行脚ならば、すり臼しらぬことあるまじ、都より人相書もて尋られし落人ならんと情なくも主従とも爰にて命を落し給ひぬ、辞世

あだなりと 思ひし花の よはひさへ うらやましくも おもひけるかな

(改頁)

45_蜷川新右衛門親当(にながはしんゑもんちかまさ)

うきふしの かたみもとめず おきてゆく あさ露きえぬ 道のさヽ原

【頭注】

蜷川新右衛門は足利義教公の近臣にて禅学をよくし、哥に名あり、山家燈

くれてこそ 人すむ庵も しられけり 片山かげの まどのともしび

親当年ごろ思ふ女の方へ文を送りけるに、使の者取違へて本妻の方へ遣しければ、本妻其文を夫へ返し

にな川の そこの心の あさければ こいしこいしの かずぞ見えける

此哥に恥て忍び妻の方へ遠ざかりけるとぞ、又一休禅師にこんいなれば本来心を問とて詠遣しけり

すぐなるも ゆがめる川も 川は川 ほとけも堂も おなじ木のきれ

一休、其返哥に

直なるも ゆがめる川も かはヽ川 仏も下駄も 同じ木のきれ

座禅する ふすまの下の やせ虱(しらみ) くふとおもふも さとりなりけり

(改頁)

47_園生
46_今出川義視
義烈百人一首-32

46_今出川義視(いまでがはよしみ)

故郷を かり寝の旅の 夜嵐に 芭蕉ならねど 夢は破るヽ

【頭注】

義視公は東山殿の御弟にて一たび釈門に入、浄土寺の門主義尋と申てありしを、将軍御代を譲らんと還俗(げんぞく)なさしめ義視と改、今出川の御所に居し細川勝元管領たり、然るに義政公の御台所に若君誕生ありければ、将軍御心かはりて義視公を廃す、此ゆゑに御中不和となり都にも住がたく伊勢の北畠具教卿をたのみて彼国の山寺にて此うたはよみ給ふ、又彼浦辺にて十三夜に

思はずよ 都の月の のちの名を いせのうらはの 波に見んとは

文明元年公方家の若君五歳にて御家督に定りければ、山名宗全は義視公を御世継にせんと畠山義就、斯波義廉、一色等をはじめ味方として応仁の大乱ははじまりける、

(改頁)

47_園生(そのふ)

さめやらぬ 夢かとぞ思ふ うき入の 煙となりし そのゆふべより

【頭注】

園生は細川六郎勝之のいひなづけの妻なり、応仁元年九月、細川勝元の長臣安富長野等、勝元の息男六郎勝之を大将として相国寺に籠りけるに、山名方の大軍押寄、双方火花をちらす折から、寺中の悪僧山名に心を通じ寺に火をかけければ、山名方力を得て軍勢雲霞の如く責入ければ、細川方五百余人討死す、軍果てのち、人々の死を悲しみ僧共葬式をいとなみ卓一脚を置て中陰の儀式をなしけるに、若き女一人参りて哥一首卓の上に手向、焼香して果ける、是勝之と縁を結びし園生なりけり、乱れたる世といひながらぜひもなきことなりと、きくもの袖をしぼりける、

(改頁)

49_安富勘解由元盛
48_浜豊後守康慶
義烈百人一首-33

48_浜豊後守康慶(はまぶんごのかみやすよし)

かへりこん 君が為とや 古郷の 花も八重たつ 錦なるらむ

【頭注】

浜豊後守康慶は下総国小金の城主なり、弟民部大輔春利に城を守らせて身は京都にありけるが、東の野州常縁一族の争乱をしづめんが為、下総に下り其留守に居城を斉藤妙椿に切取られて常縁愁ひて父の忌日に

あるがうちに かヽる世をしも 見ざりけん 人のむかしの なほもこひしき

此哥を弟春利の方よりしたヽめ送りければ、康慶是をあはれみ斉藤妙椿に此物語をせしかば、妙椿感じて早速城をかへす、是浜康慶が心のたのもしきがゆゑなり、常縁浜が方へ消息のうちの哥の中に

霧こめし 秋の月こそ よそならめ かざしに匂へ する里のはな

康慶此返しに此哥を遣しける、

(改頁)

49_安富勘解由元盛(やすとみかげゆもともり)

立かへり さこそと今を 思ひやる こヽろの道や おなじふる里

【頭注】

安富勘け由は義政公の臣下也、打つゞく世の乱れに東常縁関東の留守、美濃の郡上の城を斉藤にとられ、和哥の徳にて取かへし、妙椿の方へ送りし十首の哥を安富写し見て思ひ切なるに、涙をうかめこの「立かへり」の歌を送り、かつ又手紙のおくに

このたびの ことの葉よりぞ きこえくる よヽをかけたる わかのうらかぜ

東野州も二首の哥、かつ深切なる心のほどをかんじ、かへりごとこまごまとしたヽめ、其おくに常縁

とはれぬる こと葉の花の 色にこそ ふる里ながら すむかひもあり

たちかへり けふにあひても よヽをふる あとヽ思はぬ わかのうらなみ

(改頁)

51_若槻伊豆守長澄
50_吉川経基
義烈百人一首-34

50_吉川経基(きつかはつねもと)

君が為 民のためぞと 思はずは 命を惜む こともあらなん

【頭注】

吉川経基は大勇猛の人なり、応仁のころ、内裏のほとりを通りけるに、築地の上を馬帽子の越て見へけるを内にて主上叡覧ましまし、何者なれば築地のほとりも下馬せざるやと仰られ、蔵人を召て見せられけるに、馬上にてはこれなく、歩行(かち)にて丈七尺余の武士也、名を問に安芸の国人吉川駿河守経基と答、彼は鬼吉川と唱へて聞へる勇士也と御所へ召れて忝くも天杯を賜りけり、経基頂戴して酒をうけけるに、蜘一つ下りて盃中に入けり、経基是を嫌はず蜘ともに呑ほしける、これ天盃なるがゆゑなり、かひがひしき武士の行迹かなと御感ありて三つ引領の御紋を下し給はりけり、勇のみか和歌に秀て能書の聞へある人なり、これ吉川家の祖なり、

(改頁)

51_若槻伊豆守長澄(わかつきいづのかみながすみ)

花さかぬ 今のうき身も 古へも 身のなるはては かはらざりけり

【頭注】

若槻伊豆守は源三位頼政の末孫なり、勇ある人にて永正の比、前将軍義植公大内義興の守護に依て再び都へ入給ひければ、義澄公をはじめ細川澄元没落して四国にありしが、大内勢本国周防へ帰りしよしを聞、澄元四国の勢を以て攻上るに、先摂州西ノ宮に陣取、越水の城を取囲む、守将には河原林対馬守、阿部蔵人、若槻伊豆守等防戦の術を尽し持こたへけれども、二ヶ年の籠城に兵粮つき、気屈して阿部、河原、林をはじめ皆城をひらきて立退けるに、若槻一人残り止り何の為に命を惜んで落行けんやと扇を敷て居直り頼政のむかしを思ひいでヽ、辞世に此歌を書のこし腹一文字にかき切て相果たり、若槻が行迹、皆人感涙を催しけるとなん、

(改頁)

53_六角氏綱
52_尼子経久
義烈百人一首-35

52_尼子経久(あまこつねひさ)]

余所にのみ 見てやはかへる 桜花 手折てかざす けふの輩(ともがら)

【頭注】

尼子経久は塩冶判官高貞五代の孫也、高貞讒死の後、其子三歳の児ありしをかくして世をしのび、尼の子として養育せり、ゆゑにめう字を尼子といへり、経久天性無欲の人にて人を扶助することを好み、人わが所持の物を誉る事あれば、さほど称美せらるヽ心なら進ずべしと珠玉珍宝をしむことなく遣はしけり、ある人此心をためして庭の松を誉けるに、翌日遣はさんとて人夫にいひつけ掘らせしに、枝繁て十間に余り道の通行自由ならねば、此由経久に申せば、さらばぜひなし、その松こまかに切て遣すべしと切砕きてあまたの牛車につけて送りけるといふ、かヽる気質の将なれば旗下になびくもの多し、

(改頁)

53_六角氏綱(ろくかくうぢつな)

えにしあれや 是ぞ限と 思ひしも まためぐりあふ 袖の月影

【頭注】

六角氏綱は高頼の嫡男にて近江の国主なり、力つよく弓馬に名あり、丈六尺八寸あり、大内造替の賞によりて昇殿を免され従四位上右衛門督たり、将軍義澄公をとり立諸方の逆敵と戦ひ軍功をあらはす、此人のことばに夫良将は罪を己にせめて人にせめず、国家の治乱は我にあり、民の心にあらず、おのれたゞしからずしてたみを罪するは、たとへば木の根を断て枝葉の茂らんことを願ふよりもなほはかなしといへり、ある時、氏綱江州宇根野に鷹狩して丹頂の鶴を得て将軍家へ献奉りしに、甚よろこび給ひて一首の和哥をおくり給ひぬ

をさまれる 御代には猶も あふみぢや うね野の鶴の いくよへぬらん

(改頁)

55_相良武任
54_義晴公
義烈百人一首-36

54_義晴公(よしはるこう)

いづれぞと わかぬこずゑの 白雪を 手にとるからに しるき梅が枝

【頭注】

義晴公は足利十二代の将軍なり、此ころ打つゞき世の中乱れ三好等の為に都を遁て坂本へ退座なし給ひ、其後大嶽の中尾といふ山に一城を経営せらるれども、いまだはかばかしからず、御不予にて穴太の新坊といふ所に御床を寄せられ暫御補養の折から、庭上の雪を見て此哥を詠ぜられ、斯て御脳重らせ給ひ目寝(まどろみ)給ふ夢に

みだれぬる 世のうきめをも わすれ草 今身のうへに いざうへて見ん

誰なるか此歌を詠じて面白き哥にて候心に味ひ給へといふと夢さめたり、是亡祖義政公のよみ歌也、今世の擾乱をしらしめ給ふなりと、その後御嫡義輝公へ種々遺言し給ひて、つひに穴太に於て薨じ給ふ、寿四十歳、万松院殿と申奉る、

(改頁)

55_相良武任(さがらたけたふ)

捨かぬる 人も捨れば すつる世に など捨られて すてかぬる身ぞ

【頭注】

相良遠江守武任は大内義隆の重臣にて政事を扱ふがゆゑに諸臣の妬をうけ佞人の讒によりて陶入道と不和になり、既に争乱に及んとす、武任私の遺恨に陶と戦ひなば国中の兵死亡に及び、又は隣敵尼子勢此虚を覗ひ責来らば、主家の大事なりと不義の戦ひを好まず、夜半に*を退いて石見の津和野に隠れ居しが、大将義隆山口をおちて舩路を筑前へ赴き給ふと聞、一所にならんと彼国へ下るとき

空蝉の つくしよしとは 思はねど 身はもぬけつヽ なくなくぞゆく

斯て大内義隆をはじめ一族みな討死せしと聞、力なくさらば世に在ても詮なしと出家して正任法師と号し念仏三昧に年月を送、風雲花月の間に心をすませしといふ、

(改頁)

57_同召仕お才
56_神西元通妻
義烈百人一首-37

56_神西元通妻(かんさいもとみちのつま)

思川 沈む水屑も 浮む瀬を みのりの舟に かけてたのまん

【頭注】

尼子の旗下神西三良右衛門は上月の籠城に兵粮尽て士卒を助んため切腹するに、其妻も死を共にせんとするを、神西さとし止めて、今我あまたの士にかはりて死する身の女を召連たりと聞へては弓矢の疵となりなん、爰を落のびて我後世を弔ひ給はれとあれば、泣く泣く別れて良等の助により京に上り西山に庵を結て念仏三昧のほか他事なし、然るに此庵近くにびわ法師松の尾勾当といふ者、同国の者なれば昵しく語り合しに、此勾当の許へ信長の近臣不破将監といふ者、折々来り、此尼をふと見そめ馴染んことを勾当にたのむに、勾当堅く是を断ければ、将監大に怒り恥を捨て士の言出したること叶はずとて、その儘にすべきや、勾当をさし殺し尼も手にかけ切腹せんとのヽしりければ、ぜひなく勾当此由を尼に語り歎ければ、尼思案して迚(とて)も詞を以て遁れんやうなきをしり我願(ぐわん)は百万遍のねぶつを唱へ二千部のあみだ経を読願なるに、今三百部ばかりで満るゆゑ、その後になりてともかくもと言拵へ日を延し置て仏前に向ひ経をよみ、夫の位牌のかたはらに

おくれ行も 道は迷はじ かねてより ちぎる心の はなのうてなに

其後、最期のかくごして西川の岸に至り念仏して指を喰切、岩の上に「思川」の哥を血にて書のこし、水中に身を投て死す、乳母もつゞいて水死す、召仕お才跡を尋て来り此ことをしり泣ど叫ど詮方なく人を頼て死骸を求、貞安上人を請じて念頃に弔をなし、お才も桂川にゆき此哥を詠おき主人の沈し所に身を投て死す、主従一丘の塚となりて世の感称のたねを残しぬ、

(改頁)

57_同召仕お才(おなじくめしつかひおさい)

のこるとも 幾ほどの世を 経てしかな 草葉にもろき 露の玉の緒

【頭注】

由を尼に語り歎ければ、尼思案して迚(とて)も詞を以て遁れんやうなきをしり我願(ぐわん)は百万遍のねぶつを唱へ二千部のあみだ経を読願なるに、今三百部ばかりで満るゆゑ、その後になりてともかくもと言拵へ日を延し置て仏前に向ひ経をよみ、夫の位牌のかたはらに

おくれ行も 道は迷はじ かねてより ちぎる心の はなのうてなに

其後、最期のかくごして西川の岸に至り念仏して指を喰切、岩の上に「思川」の哥を血にて書のこし、水中に身を投て死す、乳母もつゞいて水死す、召仕お才跡を尋て来り此ことをしり泣ど叫ど詮方なく人を頼て死骸を求、貞安上人を請じて念頃に弔をなし、お才も桂川にゆき此哥を詠おき主人の沈し所に身を投て死す、主従一丘の塚となりて世の感称のたねを残しぬ、

(改頁)

59_土佐兼定
58_斯波義銀
義烈百人一首-38

58_斯波義銀(しばよしかね)

何をかは 恨やすらん すむ月の のぼればくだる 世をぞ思ひて

【頭注】

斯波治部太輔義銀は足利尾張守高経の末にて、父は吉統といひて尾州清須の城主なりしが、其家老織田常祐入道の子、彦五良、信友叛逆して彼がために討れ、此時義銀幼少なれば足利三家と称せし斯波の家亡びけり、然るに織田信長勢を発して彦五郎を討取、義銀を治部大輔と称して斯波の家を立るといへども名のみなれば流浪して世を捨、三松軒と改む、信雄の家老津川玄蕃允は此人の弟なり、三松軒の軍哥武者物語に多く見ゆる中に九思一言といふことを

九つの 心をしれや ものヽふは おぼえもおちも 一言ぞかし

(改頁)

59_土佐兼定(とさのかねさだ)

植おきし 宿の藤なみ 心あらば 今こん春は 咲な匂ひそ

【頭注】

一條兼定は禅閣兼良公の末にて世々土佐を領し幡多郡中村に居す、土佐の御所と号し国人等かしづきしに、長曾我部元親領内を切取る、是を防に心術を尽すといへども力及ばず一と度豊後へ退き、大友宗麟と合体して元親を討んと土佐を出立の折から、年比愛せし庭の藤を捨おくことを惜み鞭にて藤の枝を撫て此哥を詠じければ、ふしぎにもその年は此藤花一つも咲ざりけり、伊予へ通りし道に津嶋といふ在家にて茶を乞ふに、麗き女汲て出す、名をとふに雪としへば

わが思ひ 冨士のたかねに つむ雪の きえなんと思ふ またゆきにあふ

此返しに彼むすめうたひて

わたしやつしまの かぢやのむすめ くさり作つて きみつなご

此うた今の世まで謡ふ、津嶋ぶし是也、

(改頁)

61_足利義昭公
60_大内常姫
義烈百人一首-39

60_大内常姫(おほうちのつねひめ)

霧つヽむ 大みね山の もみぢ葉も 嵐やけふの 敵(かたき)なるらむ

【頭注】

常姫は大内義隆の息女也、家臣陶(すへ)入道全薑(ぜんきやう)が逆意の乱に山口築山の御所も敵充満せしにより義隆もわづかの手勢にて夜の間に落玉へば姫も良等の介抱にて立退けれども、深窓に生立し身の哀にも、かちはだしに山路の荊(いばら)に足を破り血は流れて径路(こみち)の草を染ければ、あまりいたはしきに岡部右衛門太夫鎧の上に負ひ参らせ大坂峠といふを越けるに、夜明がたにて行先はまだ見分らず、けふの命などか惜かるべきと涙にむせび給ふを冷泉隆豊烈まして姫は哥をよく遊し候が、向ふの大みね山霧の晴間に顕しはよき哥の題に候と申ければ、此歌を即座に詠給へり、斯て息心寺といふ寺にて御父に別れ良等つきそひ忍びておはせしが、父上討死のよしを聞、十五歳にて自害して果給ひぬ、

(改頁)

61_足利義昭公(あしかがよしあきこう)

遠き世の ためしをかけて 思ふかな 心なぐさの はまの夕波

【頭注】

足利義昭公は義輝公の弟にて十五代の将軍となり給へど、此比は世の中乱れて都の御所も全からず、所々に御動座ありて一とたびは御利運を得給ふといへども、後終に信長と確執に及び戦ひ利なくして西国へ落給ふに、備前国牛窓にて南風烈しく霖雨(りんう)朦昧として、いとゞ海路のあやめもわかたず、義昭公一首を詠じて懐中に投入、河伯に手向給ふ

おもひきや 舟路の旅は うしまどの 月の夜汐に そでぬるヽとは

此詠天神地祇の感応やありけん、たちまち波風和らぎて舩中安穏なり、かヽる徳はましますといへども、不運にして中国にさすらひ毛利家をたのみ、天正六年落髪して道慶昌山と号し、准三后の宣下ありて、慶長二年、六十一才にて薨ず、

(改頁)

63_鳥居強右衛門勝高
62_鳥居兵庫介
義烈百人一首-40

62_鳥居兵庫介(とりゐへうごのすけ)

先だちし 小萩がもとの 秋風や のこる小枝の 露さそふらん

【頭注】

鳥居兵庫介は朝倉義景の臣なり、義景織田信長と弓矢に及び、鳥居は子息与七郎と共に度々勇戦をはげみける所、味方の浅見対馬守心変りして信長の勢を大嶽の城に引入れて城を明のきければ、越前勢義勢をうしなひ、刀祢山にて大将分廿三人討死す、のこりの勢高槻といふ所に陣取るにまたまた朝倉式部大輔心がはりして味方難義に及び、討死する者少なからねば、兵庫介大に怒り逆臣どもを微勢にて刀及ばず、悴与七郎も討死せしよし聞へければ、今は世に心とゞむべきにあらずと此哥を書のこし、腹十文字にかき切て朝倉義景の為に恩を報じけり、

(改頁)

63_鳥居強右衛門勝高(とりゐすねゑもんかつたか)

吾君の 命にかはる 玉の緒の 何いとひけん ものヽふのみち

【頭注】

鳥居強右衛門は奥平家の臣にて智勇の人也、甲州勢長篠を囲て攻ること急なり、城兵防に怠かざれば陥ことあらずといへども、兵粮乏しきがゆゑに後援を乞ふ、此使を強衛門うけがひて城を出て岩壁を伝ひ川に入て水底を潜り鳴子を切難なく忍び出て遥の峠に上り相図の烟を発し三州に走ゆき加勢を乞ふ、その艱苦詞につくしがたし、直に立帰り後詰(ごづめ)の吉左右(きつさう)をしらせんと山に烟をあげ城中に入らんとすれども、終に敵の為虜となり聊も陳ぜず有の儘に申す、敵将其勇を感じて助禄を与ん、城門に至り加勢は決てなきよしを申せとあるをうけがひて城兵に向ひ三遠濃尾の大軍にて後詰明日来る運を開くこと三日を過まじと力を付る、勝頼大に怒つて刑するといへども、武名は万代輝しぬ、

(改頁)

65_箕作義賢入道承禎
64_新納武蔵守忠元侍
義烈百人一首-41

64_新納武蔵守忠元(にいろむさしのかみたゞもと)

あぢきなや もろこしまでも おくれじと 思ふこヽろは 昔なりけり

【頭注】

新納武蔵守忠元は薩州にて大勇の人也、天文十二年十二月、嶋津義久公より足利将軍へ初めて鉄砲五挺を献ず、此御使にこの新納を上す、鉄砲は永正七年初て薩州に種子島へ渡り、新納武蔵の術を習練して百発百中の妙を顕すといへり、且、九州数度の兵乱に薩州泰山の如くなりしは、此新納武備の堅固なるいさほしなりといへり、年はるか経て朝鮮陣の比は新納其齢八十に余り、国中の留守なるゆゑ老て戦場にのぞまざるを無念に思ひ述懐の心にて此哥は詠けるとなん、

(改頁)

65_箕作義賢入道承禎(みつくりよしかたにうだうじやうてい)

大空は ただ其儘に おのづから かけずさわらず 道のもとなり

【頭注】

六角左京大夫義賢は佐々木義秀の伯父にて従四位抜関斎といひ永禄元年入道して承禎と号す、同五年補任浅井備前守後藤但馬守等と不和になり国司義秀とも睦しからず、弓矢の沙汰に及んとて江州に物さわかしく此と京へ聞えて将軍より和平いたし候やうにと細川藤孝を遣はし扱せ給ふに、即日和睦とヽのひければ藤孝よろこびて

こほりゐし 津田の入江も 打解て 国もゆたかに 春風ぞふく

かくてのち、又承禎の息、右衛門督義弼変心して三好と合体せしゆゑ義秀軍を発して箕作りの城を取上る、義賢先非を悔て義秀に随身して家を立、慶長三年三月十四日卒す、梅心院と号す、

(改頁)

67_別所山城守室
66_吉川駿河守元春
義烈百人一首-42

66_吉川駿河守元春(きつかはするがのかみもとはる)

はてし憂き 心もしらで 朝夕に なれにし宿の 秋の初かぜ

【頭注】

吉川元春、毛利元就卿の二男にて三家の内、芸州より西北の方の敵には極めて先鋒の大将たり、英智にして軍略掌をさすがごとし、陶全薑が四万余人の軍勢厳島へ渡り陣取し比、爰に地の御前の神主、毎日蛤舟にのりて渡り奉幣する例なりしを、元春家人を神主に仕立、ゑぼし浄衣を着せて宮嶋へ渡す、陶が方にて此神主を招き毛利方の陣のやうすを問ふに、是に答て陶殿の勢、草津、廿日市に掛りなば勝利を得べしと待かひなく此島へ渡り給ふ故、驚き毛利家滅亡なりと力を落し、あきれ果、今日中に引払ひ、居城に帰るべき沙汰なりといはせ油断をさせ置、その夜、惣軍島に渡り吉川手勢に陶が掛り舟を焼せ大将弘中三河守を討取、その身一世の軍功あげて数へがたし、

(改頁)

67_別所山城守室(べつしよやましろのかみしつ)

のちの世の 道も迷はじ おもひ子を 我身にそへて 行すゑのそら

【頭注】

別所小三郎の伯父山城守賀相の室は畠山下総守の女にて容顔人に勝れ心剛にして夫賀相出陣の留守には自長刀をもち腹巻し床机を放れず、油断なく跡を守る、勇烈無双の女性なり、一門切腹の節、その座に出て御最期の時刻も最早近付候ひぬ、先立参らせ若き人々に案内申さん、三界唯一心、心外無別法、阿字の一刀のもとに生死を切断し永劫の楽みを受る、仏土に急せ給へよ人々と、幼少の男子二人、女子一人を左右に居て守刀を抜、花の蕾の綻びず、露を含める有さまなるを引よせ引よせ刺殺し、此哥を書のこして返す刀に我胸元をつらぬき、うつぶせに成て果、美名を後の世にのこしぬ、

(改頁)

69_別所彦之進室
68_別所長治室
義烈百人一首-43

68_別所長治室(べつしよながはるのしつ)

もろともに 消はつるこそ 嬉しけれ おくれ先だつ ならひなる世に

【頭注】

別所小三郎長治の妻は天正八年正月、士卒を助ん為、夫長治は切腹す、我も女にてこそあれ何ぞおくれんや、夫と共に不退転の浄土に赴くべしと言ながら、三歳の男子を側に引よせ守刀にて刺殺さんとはしけれども、此家に嫁してより久しく子のなきことを歎しに、はからずも儲し一子ゆゑ朝夕愛して荒き風にも当ず、松の齢を寿き楽しみしかひもなく今朝の霜と消なんこと悲しく思ひ切つたる心中も刀をもつに力なく抱しめて泣沈みしに、長治は声をかけ親子の宿縁ひとかたならねど、此期におよびぜひなし、わが手にかけ申さんやといへば、夫の顔を見あげ御手を汚させ給ふに及ばずと、此辞世をかきのこしむざんや小児を刺殺し、かへす刀で我身も自害して操をのちの世にのこしぬ、

(改頁)

69_別所彦之進室(べつしよひこのしんのしつ)

命をも 惜まざりけり 梓弓 末の世までの 名をおもふとて

【頭注】

別所小三郎の弟彦之進友之の妻は山名豊恒の女にてかたち花の匂ひ、月の光をそへて類ひなき美人なり、折しも懐胎にて産月近く、いかにもして産し子の顔を一と目見んと思ひしかひもなく此日にいたり兄嫁のいたはしくも子を刺殺て果るを見て、我身いまだ産をせざればこそ一つの悲しみ遁れたれ、産ぬを無念に思ひしが、先の歎は今のよろこび胎内十月はは仏ほさつの守ると思へば、猶仏身は放れす、来世のことはうたかひあらし、されども日の目も見せぬ子に刃をあてるいたはしさいかゞはせんとためらひしが、我心を烈して一仏浄土へもろともに生れんことこそ嬉しけれと、此哥をかきのこし心もとに守刀を刺貫ていまた若木の花ざかり、十九歳を一期として泉下の露ときえはてぬ、

(改頁)

71_土岐光忠
70_香川兵部大輔春継
義烈百人一首-44

70_香川兵部大輔春継(かゞはひやうぶのたいふはるつぐ)

滝津瀬に 散てわかるヽ 桜ばな 流れのすゑに またやあふらん

【頭注】

香川兵部大輔春継は中国毛利家の旗下の将也、天正三年尼子勢の篭し私市の城を取囲み対陣に及ぶ折しも、秋の末なれば野山もみぢして詠ひとしほまさりければ、城中組手の将、森脇弾正久仍よせ手のさま、山々のけしきを見捨んもほいなしと

山ははや かつ色見せる 時雨かな

としたヽめて矢文に是を射ておくれば寄手は此脇を付かねてゐしを、吉川元春香川春継を召てはやく付候へとあれば、ことばの下より

あきのあらしに 落る朝つゆ

かく認めて射返す、森脇が発句は城中勝利の心をふくむといへども、脇の香川の句は安芸の威風にこの城没落の機を顕せり、されば城たちまち落て安芸方勝となりて春継の英名四方に聞へけり、

(改頁)

71_土岐光忠(ときみつたゞ)

うき雲は よしさそふとも 朝嵐 暫は吹そ 花の真さかり

【頭注】

土岐治右衛門光忠は惟任光秀の親族にて丹州八上の城主なり、本能寺合戦の日、二條責の戦ひに鉄砲に当り深手をおひければ立つことあたはず、知恩院に入て疵治療をせしうち、程なく山崎合戦はじまり、日向守の一家敗軍して滅亡ときヽ、歯かみをなせしに家臣ども諫めて一とたび丹波八上の城へ引取給へといへはとかうの返答はなく、莞尓(くわんじ)と笑ひて

たがための 名なれば身より 惜らん はかなきものは ものヽふのみち

これをくりかへしくりかへし吟じて六月十四日の朝、知恩院にて切腹して果る、とし四十三歳なりしといふ、

(改頁)

73_斎藤内蔵介
72_明石儀太夫
義烈百人一首-45

72_明石儀太夫(あかしぎだいふ)

弓取の 数にいるさの 身となれば おしまざりけり 夏の夜の月

【頭注】

明石儀太夫は亀山の勇士にて、秀吉公中国より和睦して上洛の砌、七十余人の力者をしたがへ尼ケ崎、西の宮の辺に百姓に出立、埋伏(まいふく)して討んと待しに、秀吉公高運にして危きを遁れ栖賢寺に隠れ、討もらしければ歯がみをなし討死と覚悟せしが、此謀成就せざることを告ずは後日の戦ひ手違ひあらんと尼が崎より赤裸になりて淀の城に走付、奇計的当せしかど討もらせしことを悟り、無念の涙を流せしかば、大将その忠節をかんじ、重ての戦ひに功を顕すべしと刀を与へしに、儀太夫涙ながらに退き、其夜此辞世を書のこし腹十文字にかき切て死す、

(改頁)

73_斎藤内蔵介(さいとうくらのすけ)

消て行 露の命は みじか夜の あすをも待ず 日の岡の峯

【頭注】

斎藤内蔵介利三は美濃より出て智勇の英傑なり、光秀に身を寄てありしが、逆意の催しをきヽてことばを尽して諫れども許容なきを歎き、こと決すれば今はぜひなし、一命を参らせんと覚悟して武略をめぐらし、山崎に於ては高山右近の堅陣を切落し、又筒井勢を追落し勇を震ふといへども、天運のしからしむるところ、山崎大敗軍となり一方をきり抜、落のび堅田の里の乳母の方にかくれ秀吉公をねらひ、さし違んと都に赴きしに、大津の町にて堀尾茂介吉晴に出あひ、怪しまれ血戦するといへども、終に堀尾が為に生捕れ誅に伏す、最期の辞世に詩を賦し、此哥を残して勇名をあらはしぬ、

(改頁)

75_同息女
74_柴田の末森
義烈百人一首-46

74_柴田の末森(しばたのすゑもり)

今爰(こヽ)に むそじ余の 日の数を 只一時に かへしぬるかな

【頭注】

末森の方は柴田勝家の姉なり、天正十一年四月、勝家は信孝を取立んと羽柴と鉾を争ひけるに、甥佐久間玄蕃勇にほこり勝家の下知に応ぜざるゆゑ、大敗軍となり越前へ退き、北の庄の防戦も及びがたく最期の覚悟をなし、勝家上村六左衛門といふ臣を呼、詩を止て此末森母子を落し忍びて助よ、討死にまさる忠義なりとたもにければ、上村泣々二人の女性をいざなひ夜にまぎれて椎が谷の奥へ落、竹田といへる里にいたりて草庵を求めて入れまゐらせ手厚く介抱なし、上村はなほ北の庄の様子を伺はんと往還へ出行しに、翌日申の刻ばかりに北の庄の天守に火かゝり黒烟り立上りければ、末森母子是を見て、扨は北の庄落城して皆々自害せられしやらん、とても生ながらへる身にしあらねば世にありて憂こと見んよりははやく黄泉(よみぢ)にいそがばやと言ければ、息女も同じ思ひにてうとましの世ぞ何か名残のをしからんと筆をとり「思ひきや」の哥を書ければ、母も涙をおしぬぐひ一首をさらさら書をはり母子ともにつるぎを抜はなし称名とともに心もとを突立、健気にも自害なせしところへ上村六左衛門走かへり此体を見て涙にむせび、さすがは柴田どのゝ姉君、姪君らしくも斯はなしたまふと介錯して草庵に火をかけ上村も立ながら腹十文字に掻切て火中に飛入果けるを、聞人袖をぞぬらしける、

(改頁)

75_同息女(おなじくそくぢよ)

思ひきや 竹田の里の 草の露 今もろともに きえんものとは

【頭注】

落城して皆々自害せられしやらん、とても生ながらへる身にしあらねば世にありて憂こと見んよりははやく黄泉(よみぢ)にいそがばやと言ければ、息女も同じ思ひにてうとましの世ぞ何か名残のをしからんと筆をとり「思ひきや」の哥を書ければ、母も涙をおしぬぐひ一首をさらさら書をはり母子ともにつるぎを抜はなし称名とともに心もとを突立、健気にも自害なせしところへ上村六左衛門走かへり此体を見て涙にむせび、さすがは柴田どのゝ姉君、姪君らしくも斯はなしたまふと介錯して草庵に火をかけ上村も立ながら腹十文字に掻切て火中に飛入果けるを、聞人袖をぞぬらしける、

(改頁)

77_字都宮鎮房女
76_滝川一益
義烈百人一首-47

76_滝川一益(たきがはかずます)

水茎に すぎにしことを とゞめずは さりし昔を いかでしらまし

【頭注】

滝川左近将監一益は信孝に心を寄せ柴田と共にことを計し人ゆゑ太閤の心に叶はずといへども、武略の者ゆゑ召仕はるゝ一益、或時山屋敷の広き所に鶴あまたおりて餌を拾ひゐる中に番鳥は四方を見合せ一声鳴も用心して外の鳥とは別なり、又軒に雀多く集り友鳥と戯るゝを見て小姓どもに言けるは、鶴の身の固と雀の心なきと人にくらぶれば、鶴は大名、雀は其方ども也、国郡を多く領する者はそ*粗忽に一と言もいはず、食物にも膳番、毒味などありて気儘の食事もならず、寝起とも心のまゝにせず、昼夜の心遣ひ鶴と同じ、汝等必鶴の如くの大身を羨ことなく、雀のごとくの小楽をたのしみ候へといひしも理にあたれり、蟹江没落の後、流浪して越前にて卒す、

(改頁)

77_字都宮鎮房女(うつのみやしげふさのむすめ)

なかなかに きゐではてなん 唐衣 たが為におる はたものヽ音

【頭注】

天正十六年、秀吉公九州征伐の砌り、豊前国城井谷の屋形なる宇都宮鎮房、太閤に敵対しければ、黒田、吉川の軍勢攻立けれども、要害に籠り防ければ、寄手討死の者多し、後扱ひを入れて和睦とゝのひ饗応の為馬ヶ岳の城中へ呼び酒酣(たけなは)に及び、油断を見て野中太郎兵衛といふ者討手に向ひ、鎮房を討とり良等百五十余人、其外一類をも皆討るべきに定り、鎮房の女をも虜としてきびしく押こめ、後はたものゝ罪に行はるべき沙汰の有ければ、此哥を辞世として自害して果けるとなん、

(改頁)

79_田中吉政
78_北条陸奥守氏輝
義烈百人一首-48

78_北条陸奥守氏輝(ほうでうむつのかみうぢてる)

天地の 清き中より うまれきて もとの住家に かへるべらなり

【頭注】

北条氏輝は左京大夫氏政の弟にて智勇の将なり、武蔵国八王子の城主なれど、天正の戦ひに我居城を横地監物にあずけ、二の丸を中山勘解由、狩野一菴、近藤出羽守等に守らせ、其身は小田原に籠城してよく防戦の術をつくし、威を震ふといへども北条家運かたぶきて味方に心がはりの者多く、終に敵に降り落城に及び、天正十八年七月八日、大将氏政も退城して切腹す、氏政の辞世は

雨雲の おほへる月も むねの霧も はらひにけりな 秋の夕風

氏輝も此哥を辞世として五十一歳にて果る、

(改頁)

79_田中吉政(たなかよしまさ)

さつきあめ 音なし川は 名のみにて 岩波たかく きヽわたるなり

【頭注】

田中兵部太輔吉政は初め宮部善祥坊に仕へて小身なりしが、宮部秀次公を養子として登庸するに及び、宮部の聟として天正十八年三州岡崎五万石を領し質素倹約を守り、家来をよく遣ひ自身領分を見回り農業の怠りをとがめ新田を発し空地を畑となし民をよくおさむ、慶長五年岐阜攻の時、川をわたし石田の家士杉江勘兵衛を討取、関ケ原御陣に石田に向つて一番に戦ひを初め、且、江北草津の奥に於て三成を擒(いけど)る、此功によりて筑後久留米三十五万石を領す、吉政慶長十四年二月卒して、息忠政家をつぎ筑後守たりしが、これも元和六年卒して嗣(よつぎ)なくして家絶たり、

(改頁)

81_北条氏直
80_秋田銅蚓入道
義烈百人一首-49

80_秋田銅蚓入道(あきたどうらんにうどう)

山里は 雪かきくらし ふるとしを 空にのこして 春は来にけり

【頭注】

秋田城之助実季は勇猛勝れし人にて哥道にもこゝろを寄せ、年老て銅蚓と号し法体して我像を刻置んことを欲し仏師に言付なば、仏を彫し癖にてやさしくほりては武士の像といはれまじ、釈迦に似ては天窓(あたま)むさし地蔵に似なば柔和に見えんいかゞはせんと思案して名ある人形作りを呼、委細を言ふくめ自大なる鏡に向ひ顔と像とを一と目づヽ見くえあべて我面ざしに少しも違ふことなかれと憎々しき法体に刻ませ厨子におさめ扉に書て

よしあしを しらぬ翁に きざみなす わが顔見ても われとしれけり

此像に自食事、茶などそなへて給仕す、八十余にて卒す、まことに一奇人なり、

(改頁)

81_北条氏直(ほうでううぢなほ)

結びしに 解る姿は かはれども 氷の外の 水はあらめや

【頭注】

北条氏真は氏政の息男にて武威を震ふといへども、秀吉公天下を一統の後、使ひを下して召給ふに、上洛なきゆゑ是より事起りて弓矢に及ぶ、然るに図らず北条の臣笠原新六郎、其父松田尾張守に反逆を進、上方へ内通し己が持口より軍勢を引入んと計る、松田が二男同佐馬介忠を尽して此難を防ぐといへども、大軍を以て数日責ければ城兵労れ、又は心がはりの者ありて終に落城に及び、氏直は小田原開城の後、高野山に上る、其後太閤より京に召れ、織田信雄の古館に置れ三千俵を給ひ、又西国にて一ヶ国を賜ふべきの所、不運にして行年三十三にて病死す、此哥はその時の辞世なりといふ、

(改頁)

83_武田の松子
82_菊子
義烈百人一首-50

82_菊子(きくこ)

斯あらむ 行衛もしらで たのみつる 我心をば たれかかこたむ

【頭注】

菊子は小野摂津守の娘にて奇才の女なり、龍造寺隆信の家臣、瀬川采女の方へ嫁していまださばかりの年月もかさねざりしに、夫采女は軍役にて朝鮮へ渡海せり、菊子家に残りてこひ悲しみつゆ忘るヽ隙なく思ひのはしを文に認め此哥を書添、便舩にたのみ遣しけるに、其舩逆風に打かへされ文箱は肥前の地へ流れつきたり、浦人取て名護屋の御陣所へ持行しに太閤の御目にとまり、あはれに思召て采女を帰朝せしめられければ菊子嬉しく、又一首をつらねて孝蔵主の尼に寄て上覧に入る

ものごとの あはれをめぐむ あまつ神の こヽろにかはる 君ぞたゞしき

此哥も世に聞えてあまねくほめられけるとなん、

(改頁)

83_武田の松子(たけだのまつこ)

染やすき 余所の梢に なれなれて つれなきかげに ふる時雨かな

【頭注】

武田のまつ子は京極近江守高吉の養女にて若狭の小浜武田孫八郎信統の室なり、夫数度隣国の丹羽五良左衛門長秀と戦ひ年をかさぬるといへども、不運にして終に武田信統討死せり、其兵乱の騒動に内室まつ子も擒(とりこ)となり守の者あまた付て丹羽家にありしを、秀吉公きこしめされ伏見一の丸へ迎ひとり、容顔たをやかなるに愛(めで)て御側に召仕ひたまはんことを申させ給へど、此哥を詠じて御断申あげ、随ひたてまつらねば太閤ことのほか御心を脳されけるとなん、武田の旧領をも名跡を立られしといへども、後、剃髪して操正しく清き名を世にしられしとぞ、

(改頁)

85_蒲生大膳
84_豊臣秀長
義烈百人一首-51

84_豊臣秀長(とよとみひでなが)

かけてけふ みゆきをまつの 藤浪の ゆかりうれしき 花のいろかな

【頭注】

秀長卿は秀吉公の弟にて従三位大納言に任じ大和、紀伊、和泉三ヶ国の大守となる、勇あつて温和の将なり、其比いやしき諺に物の多きことをぢやうにといふ詞あり、秀長卿やヽもすればおほしといはず、ぢやうにと言給へる故、家老どもあさましく思ひ、亜相なる御身にてかヽるひ*言よろしからぬよしを申上ければ、秀長卿聞給ひて

大和なる うぢの郡の 戸たて山 ぢやうにをりたる かぎわらびかな

古人もかく口すさみければさしていやしきことにもあるまじきやと静に申させ給へば、老臣ども眉をひそめ、恐れ入て退しとなん、「かけてけふ」の哥は、天正十六年四月、聚楽行幸の時、和歌の御会に詠し哥也、同十九年四月廿二日、秀長和州郡山において逝去す、

(改頁)

85_蒲生大膳(がまふたいぜん)

まてしばし 我ぞ渡りて みつせ川 浅みふかみを 君にしらせん

【頭注】

蒲生大膳は横山喜内直念の息男なり、幼きより戯れをこのまず、軍に出陣の時、その母大膳に向ひ、われ汝が冨貴を願はぬにはあらねど、弓矢の家に生るヽ身は昔より名を重ずるならひなり、凡物二つは兼がたし、身を全くして名を忘れよと**(は思?)ふべからずといひしかば、父と共に出陣して母の戒に違はしと思ひ濃州株瀬川の戦場に赴き合戦のなかば首一つ取て持来り、父に見せければ、父これを見てけふを最期の軍功、名も何かせんといひければ、猶東西に駈巡り戦けるに、父討死と聞えければ今は是までなりと此哥を吟じて咽に刀をさしつらぬき自害して果ぬ、いとをしむべき若武者なり、

(改頁)

87_平塚伊益
86_太田三楽斎
義烈百人一首-52

86_太田三楽斎(おほたさんらくさい)

思ひわび まつの嵐に とはれても 猶つれなきは うき身なりけり

【頭注】

太田美濃守資正入道三楽斎は武州岩槻の城主にて文武の達人なり、ある武者押の時、途中に大川あり渡さんとすれども軍兵ども川の浅深をしらず、進みかねし所を三楽斎我につゞけといひて

そこゐなき 淵やはいかに 山川の あさき瀬にのみ あだ浪はたつ

此古哥を吟じて浪のあらき方より馬をのり入れければ軍卒皆是に続き越得たり、又小田原陣の時、城中に変あることを察して太閤に告けるに、果して其如し、太閤是を感心して今世の中に不思議三つありと宣ふ、人その故をとふに、太閤の曰、一つは三楽が察智、外の二つは我匹夫より起りて天下の主となること、今一つは三楽が才智ありて一国をだに保ことなき、是世のふしぎなりと宣ひしことあり、

(改頁)

87_平塚伊益(ひらつかこれます)

名の為に 捨る命は をしからじ 終にとまらぬ 浮世とおもへば

【頭注】

平塚伊益は西国方の将に仕へ度々武勇を顕し戦場にて名をくだせしことなし、然るに主将あしき方に組せしゆゑ数度諫を入るヽといへども用ひざることを歎き迚も此軍勝利なきことをしりて一命を捨んと覚悟し、合戦初りて敵あまた討とり、その首を主将の方へ持せ、冥途の土産に参らせ候、只今討死仕るよしを言遣し、此哥を書ておくりければ、其将これを見て涙を流し武勇といひ、和哥といひ感ずるに余りありと返事をかきて

契りあらば 六つのちまたに しばしまて おくれさきだつ ことはありとも

此一首を書おくり終に此主人も討死せり、戦国の事蹟いとも感ずべきことどもなり、

(改頁)

89_二蔵主
88_塙直之
義烈百人一首-53

88_塙直之(はんなほゆき)

またこんと 誰にもえこそ いひおかじ 心にかなふ 命ならねば

【頭注】

塙直之は始め遠州横須賀の家人にて須田次良左衛門といひ、浪人して京に住時、時雨左之助と号し、加藤喜明に仕へ千石を領し、戦功ありしが、爰も浪人して金吾秀秋につかへ秀秋卒後、尾州に来り、又福嶋へ出、それより芸州を去り薙髪して鉄牛と称し京都妙心寺大竜和尚の会下(ゑか)となり詩もよく賦し禅衣の上に両刀をさす、人その異形を怪しむ、此哥は芸州厳嶋大経堂の柱に自書つけし哥なり、此堂は太閤此所の大樹の楠を切て造立ありし、俗に千畳敷といふ堂なり、直之勇功を人称すれども、数君に仕へて出家し、又還俗して末に戦死す、我慢の一畸人なり、

(改頁)

89_二蔵主(にぞうしゆ)

みつの輪に 清くきよきぞ から衣 くると思ふな とるとおもはじ

【頭注】

二蔵主は浪士の子にて妙心寺の僧なりしが、才智勝れければ西国方の大名にかたらはれて才を交へしが、其軍勝利なきを悟り、ひそかに落て行方しれず、はるか年過て二蔵主、津の国勝尾寺の辺に乞食となりて有よし、伊達政宗卿聞給ひ、近臣を遣はし尋ねさせらるヽ、其人摂州に行、乞食に投与へる銭を不受してうけよといへば、乞食答て不施して「ほどこせといへば、彼武士其心はととへば言下に此哥を詠ず、さては二蔵主にてはなきやといへば、莞尓(かんし)と笑ふ、夫より同道して奥州へ下り、大守対面ありて松嶋瑞巌寺に居らしむ、名を雲居と号して是も其比の一畸人なり、

(改頁)

91_山崎左馬介室
90_伊賀崎中務妻
義烈百人一首-54

90_伊賀崎中務妻(いかさきなかつかさのつま)

死出の山 慕ひてぞゆく 契おきし 君が言葉を 道の枝折に

【頭注】

朝鮮征伐の時、大明の大軍蔚山(うるさん)を攻し時、毛利家の手に冷泉民部少輔戦死す、其臣伊賀崎中務丞治堅軍用に付て他所にあり、主人最期の時、路を隔ければ馬に鞭打て走来れども事果ての後なれば、歯がみをなし主の死骸の側に来つて三途にて追付奉らんと腹十文字にかき切て死す、此妻長門に有けるが此よし聞えければ、もしも虚説にやと帰陣の人毎に問ひしに、主君と共に夫も最期と聞て悲しむこと限りなく、末の世かけてのかね言を徒にはなしはてじと、夫の追福に法華経を心静によみ終り、その経の表紙に此哥を書つけ守刀にて自害して果る、ためしすくなき貞女なり、

(改頁)

91_山崎左馬介室(やまざきさまのすけのしつ)

梓弓 ひき別れにし けふよりは なき身の数と たづねても見よ

【頭注】

山崎左馬介の室は池田氏の女にて力量人に勝れ、武の道男子におとらず、ある時、山崎の家に夜中盗賊入て物を奪ひ去るに、此室起出て長刀*つ取、十人余の賊を皆足を薙、又は疵をあまた付おき立退がたきさまにうごめきこらせおき、寝間に入て伏し、夜明て家人に申付、取かたづけさせし強勇の女性なり、此哥は夫佐馬介人質の為、渡さるヽ置土産によみしといふ、後、敵中を馬上にてのりぬけ上がたより三州吉田まで一騎欠にてはせ下りしといふ、勇猛ますらをにすぐれし婦人にてありけり、

(改頁)

93_筒井定次
92_羽柴頼隆
義烈百人一首-55

92_羽柴頼隆(はしばよりたか)

いにしへの その名ばかりは ありながら 姿は波の 春のあけぼの

【頭注】

秀吉公ある時、美女を集て酒宴を催し給ふ時、羽柴下総守頼隆を召し戯て、我合戦軍利を得て斯の如く美女をあつめて楽しむ上もなきこと也と宣ふ、頼隆忽刀を抜、女どもを追まくりければ、秀吉公驚き給ひいかなるざれごとにやとありしかば、頼隆申は全くざれごとにてはなく候、大敵にさへ御まけなされぬ大将の女ばらに御まけなされて天下の政事をも御聞なされず、その上御病身にならせられ候、以の外なる義ゆゑ、これ女が敵なり、右の女の内に定てひとりか二人りは大敵有べし、それを切殺して只今切腹せんと存追かけ候へども、大勢のことにていづれともしれがたしと諫言を申せし人也、太閤も理に伏し笑ひて物賜ひしとかや、

(改頁)

93_筒井定次(つヽゐさだつぐ)

世の人の くちはにかヽる 露の身の 消えては何の とがもあらじな

【頭注】

筒井定次は初藤四郎といひ、順慶の跡を嗣、大和守侍従に到り武勇の人なり、天正十三年、紀州根来寺征伐の節、千石堀の砦を責ぬき雑賀大六といふ大力の者と戦ひ筒井丸と号す、太刀をもて彼大六を売竹割に切、其外手詰の戦ひに功を得て手勢へ取る首二百余、彼を実検に備へなほ所々にて軍功を顕し小田原攻の時、松田尾張守を味方に引入れ数度軍忠あり、然れども太閤の心にかなはぬことありや、大和は秀長に給はり、伊賀の上野に移り、後、家人に志あしき者ありて父の武名におとりしことをなげき辞世にこの哥を詠して生害して果られしといふ、

(改頁)

95_木下長嘯子室
94_木下秀俊
義烈百人一首-56

94_木下秀俊(きのしたひでとし)

人しれぬ とばかりゆるす こヽろかな あざむきはてん おのれのみこそ

【頭注】

豊臣秀俊は秀次公の弟にて大和大納言秀長卿の養子となり、中納言に任ず、生質強気なれども風雅も又好めり、太閤吉野山遊覧の時、紀州六つ田の先市の坂に御儲の屋形をしつらひ風景を手にとるごとくうつし、数奇屋を立、饗応厚ければ太閤興ぜさせ給ひ、折しも春風に庭の花吹雪を見給ひ

吉野山 梢の花の いろいろに おどろかれぬる 雪のあけぼの

秀俊かへしに

ちりそふも よしや惜まじ よしの山 花を木蔭の 雪とながめて

秀俊不運にして文禄四年四月、吉野郡十津川にて頓死す、いまだ十七歳なれば継子なし、

(改頁)

95_木下長嘯子室(きのしたてうしやうしのしつ)

命やは うき名にかへて 何ならん ま見えぬ為に おくる黒髪

【頭注】

長嘯子の室は森家の女にして才器衆に勝れし女性なり、勝俊へ嫁せられて女子を一とかた産給へり、つねのことばに人生死も一寸、また善悪も一寸、万の事皆一寸なり、是をしる者は心に滞ることなしといへり、慶長五年の役に勝俊伏見を退城して隠遁の身となり、長嘯子と号して歌道に遊楽の身なりしを、此内室父祖の勇武を請継て歯がみをなし、夫の武道柔弱にして伏見を去給ひしを悔しきことに思ひ離別のいとまをこひ、髪を切て夫の方におくり尼となり、此哥を詠じて京村雲といふところに住し宝泉院と号す、後、元和元年六月、病死せられしといふ、

(改頁)

97_秀次公
96_徳善院玄以法印
義烈百人一首-57

96_徳善院玄以法印(とくぜんゐんげんいほういん)

常にこそ 曇もいとへ 今宵ぞと 思ふは月の ひかりなりけり

【頭注】

玄以法印は尾州の産にて前田次良左衛門忠重の男也、織田家に仕へ七千石にて守役たりしが、太閤の時、五万石領し五奉行を兼、京都諸司代たり、初めて洛中順見の砌、東寺辺にて牛車道路に横たはれり、玄以立腹して諸司代の通る先に道を塞く奇怪なり、切捨よといふ、家人も誠しからずと思ひゐけるが、主人の下知を背やと怒りければ、ぜひなく牛を切殺す、是を見聞の京の者ども、此度の諸司代は強気の人也、牛をさへ切るヽうへは人も此人の気にいらぬことあらば、一言もいはず切らるべしと恐れければ、玄以牛一疋殺して威を増、役中訴へごとすくなかりしといふ、此哥は聚楽御所の月見の宴に詠り、

(改頁)

97_秀次公(ひでつぐこう)

をさまれる 御代ぞと思ふ 松風に 民の草葉の 猶なびくなり

【頭注】

秀次公は秀吉公の譲りを請て、天正十九年、関白職とならせ玉ふ、此哥は聚楽行幸の時、和哥の御会に詠し哥なり、然るに讒臣の為、御父子の御中不和とならせられ御不興を蒙りてたゞちに虚名を申開んと聚楽より伏見に赴き給はんとせしに、途中に増田長盛来りて太閤の御怒り甚しきに入依て一とたび高野山に上り給ひ、折を以て仰ひらかるべしと告けるゆゑ、大和路へ赴き其夜は鄙のいぶせき藁屋に輿を入れ怪しの食を奉れど箸さへとらず

思ひきや 雲井の秋の 空ならで 竹あむ窓の 月を見んとは

終に文禄四年七月十五日、高野山において自殺す、廿八歳、治世五年、

(改頁)

99_細川候夫人
98_佐々木六角義郷
義烈百人一首-58

98_佐々木六角義郷(ささきろくかくよしさと)

八千代ふれ 只辛崎の 一つ松 植しわが身は 雲かくるとも

【頭注】

六角義郷は管領義秀の嫡子にて近江の国司なりしが、幼児の比、父卒していまだ愁忌の所へ本能寺に事ありて光秀江州に根城を固めんと国中を攻めける時、観音寺落城して義郷没落せしかども、再び太閤の取立にて家を起す、爰に辛崎の松は古へ枯なんとせし時、実隆公の和哥にて繁茂せしかど兵乱つゞききて百年に及びければ雑人枝葉を伐尽し、松枯ければ義郷新庄直頼と計りて山門無動寺より松を植かへ辛崎明神の社を造営して此哥を詠のこしける、されば蒲生氏郷上洛の時、大津より此松を見て

おもひきや 君がかたみに 植おきし 志賀のわか松 よそに見んとは

(改頁)

99_細川候夫人(ほそかはこうのふじん)

先だつは おなじ限の 命にも まさりてをしき 契りなりけり

【頭注】

細川忠興卿の内室は、慶長五年大坂玉造の屋敷に出陣の留守を固め居給ひしに、石田三成諸大名の妻室を坂城へ取入れ質にせんとす、此屋敷になほ有たきよし再三断けれども聞入ず、たゞちに軍兵五、六百人屋敷を取巻しかば家人河北石見、小笠原正斎等を呼出し、斯あらんはかねて思ひ儲しことぞと御殿に火をかけさせ、正斎介錯せよ、我生てまみへざりし人々に死ても見られんこと心よからずと顔に覆面を打掛、くヽり袴着て刀を胸に突立給ふを、正斎長刀にて介錯して石見正斎とも次の間にて腹切て死す、此歌は記念と思し詠置れしといふ、ゆヽしき賢女也と万国に語つたへて、袖ぬらさぬ人なし、

(改頁)

    
100_加藤清正
義烈百人一首-59

100_加藤清正(かとうきよまさ)

としどしに 盛久き 桜花 尽ぬ契りも 妹と背の山

【頭注】

肥後守清正の勇猛は人のしることなれば注せず、朝鮮帰陣の後、太閤清正の軍功を賞し給はんと、清正一人を御茶席へ召れ、太閤御典茶也、扨、御茶済て後、清正の曰、君の御手前先年拝見候とは違ひ、甚御上達遊され候と申せば、汝予が手前を全く嘲弄(てうろう)するならんと、御気色損じければ清正承り御意の通り茶道は不案内に候へども、先年御手まへ拝見の節は、幾度も一と鑓参らせんと存候、透間の御座候が、今日の御手まへ少しも御透これなく、されば御上達と申あげしとあれば、太閤御きげん直り、汝さほどに武事に油断なきこと感心すと有て、以来、武門の棟梁と申すべきと宣ひし也、此哥は花に寄る祝をよめりと英雄清正記(えいゆうせいせうき)に見へたり、

(改頁)

わか友水谷川柳は江戸のわたりつく田といへるはなれに小島にすなとり人なるか、をさなきころよりやしなはれたる親に孝ある事
おほやけにもきこしめさせたまひて、ふたヽひまてほめさせたまひけりとそ、身のおこなひの正しかるほと此ひとつにてもおもひやるへし、さりとてしはふにまめやかなるのみにもあらて、いとみやひやかにたはれたるかたも立そひつヽあさよひのあみ曳のいとま、硯の海におり立てやまともろこしの書ともひろくあさりつヽ世に名高き人々の言の葉とも

(改頁)

[奥付]
  
跋(続き)
義烈百人一首-60

かきつめて、弓とるかたにかしこしときこえたるるたけきものヽふをはしめ、かほよき女の操正しきなとたくひをわかち、すみそめの袖、ゆふたすきの袂、月花を友と遊ひあくかるヽ風流者、うきよをよそにうかれたるをさへとりましへつヽ、百人つヽをえらひつとへて、年ことに一種ふたくさ梓にゑらせしか、今年もふみ屋の求にまかせてかく一巻を物せられたり、此書とものよろしきよしは、つきつき世にもおこなはれて人々もよくしりためれはいはす、たヽ其人からのいみしさをかきつたへまほしくて、つたなき筆をとるになむ、

嘉永二年春       梅屋

(改頁)

[奥付]

輯者           緑亭川柳

画工  口画五頁自二十一至三十  前北斎卍老人

仝   自壹至十         一勇斎国芳

仝   自十一至二十       一猛斎芳虎

仝   自三十一至四十      玉蘭斎貞秀

仝   自四十一至五十      一陽斎豊国

(改頁)

[奥付]
義烈百人一首-61

畸人百首   緑亭川柳輯

袋入一冊 近刻

瑞応百歌撰  緑亭川柳輯

全部十冊 近刻

嘉永三年庚戌正月発売

馬喰町二丁目

東都書肆 錦耕堂 山口屋藤兵衛梓

(改頁)

発行書林

大坂    河内屋茂兵衛

綿屋喜兵衛

東都    出雲寺万次郎

須原屋茂兵衛

山城屋佐兵衛

小林新兵衛

英大助

須原屋伊八

岡田屋嘉七

和泉屋市兵衛

丁子屋平兵衛

山﨑屋清七

山口屋藤兵衛