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[解説]
『武家百人一首』は、藤原定家撰とされる『百人一首』に倣った異種百人一首のひとつで、異種百人一首の中ではもっとも刊行年の早い一書である。撰者については、尾崎雅嘉『群書一覧』の「播州姫路ノ城主式部大輔榊原忠次」という記事に従って、榊原忠次とされてきた。しかしながら、多く伝来する写本や版本からは撰者を特定する記事を見出すことはできない。榊原忠次についても、姫路城主榊原忠次のほかに、天文九年(1540)没の戦国時代の武人で、榊原忠政の子の榊原忠次を比定する説も提示されている(伊藤氏)。撰者については不明と言わざるを得ないが、本百首の内容(百人の選定状況)、すなわち、歌人の生存時期の下限が100番の足利義髙(義澄、1481―1511)であり、戦国の武将たちが採られていないことからすると、安土桃山時代よりも早くに成立したであろうことが推測される。
本書の伝本は写本としても伝わっている。伊藤嘉夫氏「武家百人一首と其の類列の百人一首」には、跡見学園蔵「武家百人一首」が紹介されている。同本は江戸時代初期の写本で、上記論文では校訂本文が示されている。写本では万治三年(1660)の年記がある一書が指摘されていて、近世期初期の写本の存在が報告されている。版本では、伊藤氏によれば、寛文六年(1666)のものが最も古く、ついで、寛文十二年(1672)の重刷板、元禄十六年(1703)の後刷板がある。書は東月南周、画は菱川師宣と言う。その後も多くの後刷本が板行された。詳しくは湯澤賢之助編『近世出版 百人一首書目集成』を参照されたい。
翻刻本文の底本として用いた上田市立上田図書館花月文庫蔵『武家百人一首』(目録:百人一首・75)は、奥付に天保二年(1831)新刻本、天保十四年(1843)補刻本である。跋文には「元禄十六歳六月上旬 渋川清右衛門」と記される。すなわち、底本は元禄十六年(1703)の後刷本をもとに新刻したものを補刻した一書で、奥付には「書画一筆 洛西並岡山麓 下河辺拾水」とある。体裁は大本一冊(タテ25.5cm×ヨコ18.4cm)、四つ目綴じ。表紙は支子色で、貼紙に「武家百人一首」と記された題箋が中央に貼られている。表紙には源氏香紋と萩紋が押されている(表―葵、花散里、常夏。裏―花宴)。
なお、同書とは別に賞月堂主人著の『武家百人一首』の外題を有する中本がある。画は玉蘭斉貞秀、江戸本石町十軒店碗屋伊兵衛刊であるが、伊藤氏は「A本『武家百人一首』の跋の半を序とし、二十三人の歌を入れかえた程度で、著を称する程でない改竄本である」と、辛辣な評を付している。
『武家百人一首』の和歌はほぼ時代順に配列されている。武家については、跋文に「武将の名たかきをもらさす、うたにほまれある人をも捨かたくかきあつめ」とあるように、武功の誉れ高い武将に加えて、和歌に優れた才能を発揮した人物が撰ばれている。巻頭の一番歌には経基王が撰ばれている。経基王は清和天皇の皇子、貞純親王を父とする王族で、後に源氏姓を賜って臣籍に降下した。清和源氏の祖である。そして、経基王の子の満仲が二番に、ついで孫の頼光が三番に配されている。以下、平安期は源氏を中心として歌人が採択されて、11番の平忠盛を始めとする平氏の人々へと移行していく。入道相国清盛は採択されていない。武家の主役は鎌倉に移り、源氏の征夷大将軍頼朝とその子実朝、執権の北条氏の人々、御家人などが配される。このあたりから「ー法師」といった名が散見する。30番の蓮生法師に始まり、33番行念法師、34番真昭法師、39番信生法師、41番素暹法師と出家者、遁世者の名が目に付くようになる。以下、56番寂阿法師、72番元可法師、93番素明法師と名称に「法師」とある歌人が見出せる。そして、終盤に至ると室町時代に活躍した武将が登場し、足利将軍で締め括られている。なお、足利将軍は十一代の義髙(義澄)までで終わる。
本百首の配列について、留意すべき事柄を一点付記しておく。22番の源頼家朝臣「夜もすから」歌について、伊藤嘉夫氏論文の翻刻本文では、該歌は5番の左衛門尉平到経の次、6番に配置されている。源頼家は翻刻の備考にも記したように、源頼光の子で「和歌六人党」の一人として知られる人で、採択歌は『詞花和歌集』(巻第八・旅歌・64)に入集している。その頼家を刊本の編著者は、鎌倉二代将軍の頼家と取り違えたようで、配列の順としては21番の頼朝の次に配置替えがなされている。父頼朝が21番にあり、弟である実朝が26番にあることから、刊本の編著者が写本では6番にあった頼家歌を置き換えたものと考えられる。気を利かしたつもりであったのだろうが、結果、過誤が生じてしまった。
『武家百人一首』に採択されている和歌の大半は勅撰の二十一代集に入集をみているものである。その状況を私に確認してみると、3拾遺―2、4後拾遺―3、5金葉―1、6詞花―2、7千載―4、9新勅撰―4、10続後撰―1、11続古今―1、12続拾遺―7、14玉葉―7、15続千載―6、16続後拾遺―1、17風雅―9、18新千載―6、19新拾遺―4、20新続拾遺―10、21新続古今―17となる(書名の前の数字は勅撰集の順番)。都合85首の和歌が勅撰和歌集に入集をみてるのであるが、武家階級が台頭してくるのは平氏政権の平安時代後期以降のことで、中世期の勅撰和歌集が多くを占めるのはある意味必然と言える。『古今和歌集』『後撰和歌集』の二集からの撰歌がないことは了解されるが、『新古今和歌集』からの採択がないことは注意される。勅撰十三代集では、唯一、十三番目の『新後撰和歌集』からの採択が無い。歌数の多い順に見ていくと、『新続古今和歌集』、『新後拾遺和歌集』、『風雅和歌集』、『続拾遺和歌集』、『玉葉和歌集』と続き、十三代集が多くを占めることが知られる。勅撰和歌集以外では、勅撰に準じられた『新葉和歌集』に入集されている和歌が一首確認できる(82番)。このほかでは、『平家物語』『太平記』といった軍記物語の和歌や『吾妻鏡』の和歌が確認できるが、出典未詳歌もある。96慈照院太政大臣(足利義政)から100源義髙公(足利義髙、義澄)までの最終盤の五人の和歌を勅撰和歌集に見出すことができないのは、勅撰和歌集の撰進が途絶えていたためである。
武家を撰歌対象とした百人一首は、異種百人一首の中でも人気が高かったようで、本書『武家百人一首』が数度にわたって刊行された。先掲のように、同名の『武家百人一首』(中本)も刊行されている。ほかに、江戸後期から明治のはじめにかけて、いくつかの類書が編まれている。
・『英雄百人一首』弘化二年(1845)
・『続英雄百人一首』嘉永二年(1849)
・『勇猛百人一首』嘉永七年(1854)
・『義烈百人一首』嘉永三年(1850)
・『武稽百人一首』安政四年(1857)笠亭仙果撰
上記に加えて同類書目の女性版たる『烈女百人一首』弘化四年(1847)も刊行されている。
[参考文献]
・伊藤嘉夫「武家百人一首と其の類列の百人一首」(『跡見学園短期大学紀要』7・8合併号、1971年3月)
→『百人一首研究資料集』第六巻(クレス出版、2004年)に再録
・吉海直人「百人一首基礎資料稿」(『調査研究報告』10、1989年3月)
・湯澤賢之助編『近世出版 百人一首書目集成』(新典社叢書18・新典社、1994年)