[解説]

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贈答百人一首
贈答百人一首

松本大学 中西満義

 『贈答百人一首』は、緑亭川柳編輯の変わり百人一首で、刊本奥付には発行年月の記載はないが、序文末尾の「嘉永六癸丑新春」により、嘉永六年(1853)新春に発売されたものと思われる。本書巻末には「緑亭川柳先生編集目録」として六点の変わり百人一首が掲載されている。

英雄百人一首   全一冊  弘化二年(1845)

烈女百人一首   仝    弘化四年(1847)

秀雅百人一首   仝    弘化五年(1848)

続英雄百人一首  仝    嘉永二年(1849)

義烈百人一首   仝    嘉永三年(1850)

贈答百人一首   仝    嘉永六年(1853)*序文による

 各書目の右側に刊行年を付したが、緑亭川柳は弘化二年刊の『英雄百人一首』を手始めとして次々に変わり百人一首を編輯、刊行した。緑亭川柳には、ほかに嘉永四年(1851)刊の『奇特百哥撰』、嘉永五年(1852)刊の『畸人百人一首』の著述があり、また、嘉永八年(1855)刊の『俳人百家撰』もある。本書『贈答百人一首』は緑亭川柳編輯の変わり百人一首としては末尾を飾る書目と言えるであろう。

 本書の編者緑亭川柳について、『日本古典文学大辞典』(岩波書店、1985)はつぎのように記す(執筆、興津要氏)。

 緑亭川柳(りょくていせんりゅう)川柳点者。通称水谷金蔵。腥斎佃(なまぐさいたつくり)、緑亭風笑と号す。天明七年(1787)生。江戸佃島の魚商。安政五年(1858)八月十六日没、年七十二。天保八年(1837)ごろ、五世川柳を襲名し、緑亭川柳と号した。その門下には、若き日の人情本作家山々亭有人(ありんど)がいた。戯作としては『遊仙沓春雨物語』(弘化四年、1847)刊、『応現お竹物語』(一冊、歌川国芳画)嘉永二年(1849)刊などがあった。本領は川柳点者にあり、戯作は余技に過ぎなかった。

上の項目の記述に従うと、変わり(異種)百人一首編集の事蹟についても緑亭川柳においては「余技」と捉え得るものであったかも知れない。しかし、上記の著述は、川柳作者であり、点者、編者としての業績と知識に根差したものであることは疑いがない。先に記したように弘化、嘉永の頃には緑亭川柳は変わり百人一首の編輯を精力的に行っていて、その業績は変わり百人一首においては看過することができない重要な意義を有している。

 『贈答百人一首』は本家の『百人一首』に同じく、歌人百名を選出して和歌一首を掲載する秀歌撰である。翻刻に際して底本とした上田市立上田図書館花月文庫の一冊(百人一首17の2)は中本一冊(タテ18,1㎝×ヨコ12、2㎝)。表紙題箋は剥落して無く、表紙左方に「緑亭川柳著 贈答百人一首」と墨書された飾り罫付きの付箋紙が貼り付けられている。なお、花月文庫には同一の書目がほかに四点存する。目録・百人一首17には四冊が合綴された状態で保存されていて、ほかに、目録・百人一首108の一点がある。さらに、緑亭川柳の著述のほとんどが花月文庫に蔵されていることも付記しておく。このことは川柳を愛好した飯島花月の文学的嗜好によるものと言えるであろう。

 『贈答百人一首』は、多くの『百人一首』の版本に倣って、掲出和歌の箇所に歌人の肖像画を付している。画については、本書奥付に

口画 従一至十    葛飾為斎

肖像 従一至十    一勇斎国芳

同  従十一至二十  一猛斎芳虎

同  従廿一至三十  玉蘭斎貞秀

同  従三十一至四十 梅蝶楼国貞

同  従四十一至五十 一陽斎豊国

と記されているように、複数の画工が分担する形式を採用している。これは他の緑亭川柳の著述も同様で、当時一流の画工の名が並んで壮観である。また、和歌に関連して頭注が付されていることも緑亭川柳の著述の特色の一つで、歌人の略伝を中心として、掲出の贈答の経緯等を叙す。

 掲出の和歌についてみると、巻頭に左衛門佐(藤原)基俊を配し、以下、西行法師(二番)、(藤原)俊成卿(三番)、(藤原)家隆卿(四番)、(藤原)定家卿(五番)と続き、百番の賀茂季鷹までの歌人をおよそ時代順に並べている。二番の西行と三番の俊成は見開きの状態(十一丁ウラと十二丁オモテ)で向かい合って描かれ、そこに両者の間で交わされた贈答歌が記される。以下も同様で、四番の家隆と五番定家との贈答歌が配され、九十八番の法印寛常と九十九番の橘千蔭との贈答歌まで四十九組の贈答が取り上げられている。なお、見開きで対応しない一番の基俊は三番の俊成との関りが言及されている。同じく百番の賀茂季鷹については九十九番の橘千蔭との贈答というかたちで関係性が示されている。なお、頭注については「凡例」に記したように、二人の歌人の略伝や贈答歌の解説等が見開き一面でなされているため、通して掲げた。

 本書の特長は、歌人を武家、英雄、武烈、烈女、畸人、遊女などといった基準によって選別するのではなく、「贈答」という和歌の形態に特化していることである。緑亭川柳自身、序文に「小倉山の麓の塵を拾ひ、百首になずらへてさきに四つ五つ梓にせしに、和歌は国つわざにて人のすさめぬる事なれば、遠近のものゝ手すさびとはなりぬ、さる故にふみの林のあるじ猶更夫にたぐへしおくり答の歌集めてよといひこしぬれど、しらすげのしらぬことにしあれば、いなめどせちに乞ふまゝ是にしたがひぬ、しかはあれど贈答の歌は世々の撰集家々の集に限りもあらねば、たゞ蓼はむ虫のおのが好むにまかせ、難波江のあしもよしと見なして、道歌狂歌なりとも詞なだらかにつゞけがらおかしきふしあるなど、花すゝほのかに聞えわたりしを、かりがねのつらねあつめ、童蒙の目をよろこはしめんと拙なきをわすれて筆を染はべりぬ」と記すように、贈答という形態は和歌文学においては、その発生にも関わる要素でもあって重要なもので、本編である百首に先立つ口絵には、贈答歌に関連する逸事十四編が挿絵とともに掲載されている。最初の逸話は伊勢神宮の神詠と祭主輔親の返歌、つぎは花山院の詠歌とそれに応じた熊野権現の神詠である(翻刻本文、参照)。

 本書については、藤川功和ほか「〔翻刻〕『贈答百人一首』(一)~(五)」(「尾道市立大学芸術文化学部紀要」13~17、2014・3~2018・3)に本文の翻刻のほか、出典等の詳細な考察がなされている。