[解題]

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はなの
はなの

二松学舎大学文学部 矢羽勝幸

 文政7年(1824)宮本八朗(のちの舟山)が、父虎杖、加舎白雄(虎杖の師)、師倉田葛三のために編んだ追善集。

 巻頭に白雄・虎杖・葛三の略伝(青木九峨撰の漢文)と肖像(翠溪筆・色摺)及び筆蹟を掲げる。本文の前に個人の発句を立句にした追善連句6卷、本文の後に一門の重鎮鈴木道彦(江戸)、中村伯先(伊那)、坂井可明(戸倉)、宮本丈馬(戸倉・叔父)4名の遺吟・歿年月日を記し、併せて追悼している。

 本文は、上部に季語を記し、虎杖(無記名)及びその門人・知友等の発句を居所とともに掲載している。その八割方は信濃の俳人達であるが江戸や諸国の著名俳人も少なくない。その一部を記すと、伊豆の僧一瓢、江戸の太□(たきょう)・蕉雨・護物・久臧(きゅうぞうのちの由誓)・鴬笠(おうりつ)・はまも女・鴬邨(おうそん・抱一)・名古屋の僧岳輅(がくろ)・京都の蒼虬(そうきゅう)・雪雄(梅室)・三河の卓池・盛岡の平角・仙台の曰人(あつじん)等々である。信濃では、

 

 薮入りや墓の松風うしろふく  一茶

その門人の希杖(湯田中)・魚淵(なぶち・長沼)・文路(長野)梅塵(中野)や諏訪の若人(わかんど)・坂城の雨紅女・石村の白斎・長野の武曰(ぶえつ)・上田の雲帯・小諸の魯恭(ろきょう)・八朗の母鳳秋女・西寺尾の丿左(へっさ)・八満の葛古(くずふる・葛三の高弟)等々各地域で活躍した俳人が少なくない。

 

本の体裁は、半紙本1冊、83丁。題簽は中央に「はなの」、内題は「華野集」。坂城の中之条代官所の静室物我(本名奥野右源太)による和文の序(陰刻)と編者八朗・春秋庵碩布・鴫立庵雉啄(ちたく)・鷦巣(しょうそう)散人護物・金令舎応々の各自筆の跋がある。また本文中には津軽の遠藤貞松と江戸の小簑庵碓嶺(たいれい)の自筆による追悼句文が収録されている。挿絵は3枚(就夫・南喬・桃堂の筆で各色摺り)が本文中に組み込まれている。彫工は、千曲市稲荷山の橘葉堂(きつようどう)である。板下は編者八朗であろう。半丁十行書き。

 このような大部の追善集を刊行した八朗の力の大きさもさることながら、白雄に発した春秋庵系俳諧が北・東信地方に及ぼした影響がいかに大きかったか改めて確認されるところである。

 底本は、花月文庫を主に、矢羽勝幸所蔵本を参酌した。