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[解題]
停雲なる俳人が批点を施した上田の加舎白雄門の俳人たちの点帖。
縦22センチ、横17センチの茶色の台紙に格子縞の入った表紙の中央に「俳諧あや免く佐」の銀紙の題簽が貼られている。1冊本。本文の用紙は、通例のマニアイ紙で17丁。半丁(1頁)4句宛て記されている。筆者は岡崎如毛である。句の次には、停雲の筆による批評文及び点印が施されている。(この部分は本文より1段下げ〔〕内に記した)点印については後述するとして、まず批評文中にみえる連句用語について一通りの解説を加えておきたい。
「去り嫌い(さりぎらい)」とは、連句で前の句に付ける折、二句を隔てる時は「二句去る」とか、「打ち越を嫌う」とかいう。このような「指合(さしあい)」をさける規則をいう。
「打こし」とは、一句をへだてて前と後ろの句が相対すること。
「聳物(そびきもの)」とは、雲・霞・霧などをいい、ともに同類の語を二句までは続けてもよいが、再び出す時は二句をおかねばならないという規則をいう。
「居所」は、家・門(かど)・天井・瓦・屋根・城などをいい、三句を去らねばならない。
この他、連句には定座(月・花・恋)があり各句その出す場がきめられている。
次に点印について解説しておきたい。印に5種類があるが、以下簡単に紹介する。
①青色の三字の長方形の印
②青色の四字の長方形の印
③燕を思わせる鳥型の青色印
④蝶形の青色印
⑤二字の朱印
これらの印には、その宗匠の価値付け(点の高低)がなされており、普通「点式」と称し、点帖とは別に印とその点数を記した小紙片が添えられているのが通例であるが、本書には伝えられていない(かつてはあったと思われるが)。したがってここでは、句の評価は不明であるが、上の①-⑤を補記した。
扨、本書には麦二(ばくに)・雲帯・如毛・争茂・露蓋(ろがい)の5名の上田の俳人たちによる百韻(百句続けられた連句)が収められているが、この5名は高点を取ったために記されたもので、作者名のない句も少なからずある。したがって他に何人この百韻に加わったかは不明であるが、とりあえず上の5名の略歴を紹介しておきたい。
麦二は、上田市常入の人。小島久兵衛弘文。本業は代々の鋳物師で上田近在の寺院の鐘はほとんどこの人に手になる。白雄が上田に来る以前から俳諧を嗜み、白雄編の『加佐里那止』(明和8年刊)の序文を書いている。ということは、上田の白雄門中第一の人ということになる。この年、上洛中の白雄を訪い『都のやどり』という俳書を刊行している。白雄殁後、国分寺の境内に門人とともに芭蕉の句碑を建立した。文化7年(1718)4月3日、79歳で他界した。
雲帯は、上田市原町の富裕な呉服・太物商で本名を成沢七郎左衛門寛致といった。明和4年(1767)江戸から来た白雄に入門、上田門下たちの中核となった。多趣味な人で茶道・楽焼・弄石(ろうせき)・書画等を嗜んでいる。安永2年(1773)長崎まで旅行して、途中加藤暁台・高桑闌更(らんこう)等著名な俳人と交際している。文政7年(1824)11月他界した。享年86。
如毛は、上田市柳町の人。本名を岡崎平助知方といい酒造を業とした。俳諧は縁者の小島麦二・荒井三机等の影響から10代から始め、明和4年白雄に入門している。俳諧のみならず狂歌もよくし、狂歌名を「宵寝長人(よいねながんど)」等と称した。文化13年(1816)4月、68歳で殁した。
露蓋は、如毛の子で6代目平助を名乗った。初名を文作という。文政元年(1818)に他界している。
争茂は、上田市原町の人。本名を荒井平右衛門、その屋号を泉屋と称した。明和7年(1770)白雄に入門、子の菊成(きくなり)も俳諧をよくした。殁年は未詳だが、文化年間までの生存は確認されている。
扨、点者停雲は、坂城中之条代官所(埴科郡坂城町中之条・天領5千石)の手代のち元締を勤めた結城五郎作の俳号である。五郎作は、停雲舎雅重と号し、上田の雲帯・如毛等と交遊したが、俳諧は中之条に来て始めた様子である(『書簡による近世後期俳諧の研究』)
結城は文化元年(1804)二十八代代官恩田新八郎の配下として中之条に赴任、同五年銀・銅山で識られた但馬生野(兵庫県朝来郡生野町)の代官所へ移っている。生野に去ってからも雲帯と交通、親密な交際は続けられた。
生野時代は、停雲舎社中を組織し、春興等沢山の俳諧摺物を発行、妻女も花林と号し、俳諧をよくした。
したがってこの百韻の成立は、文化元年-同五年(1804-1808)ということになろう。