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[解説]
原本は秋田佐竹家旧蔵、辻兵吉蔵 写本内閣文庫・国立国会図書館
活字本 真澄遊覧記刊行会、『菅江真澄遊覧記1』、新編信濃史料叢書第一〇巻
概要
菅江真澄は天明4年6月30日、洗馬を立ち、清水の里、桐原の牧、筑摩の湯などを経て越後に向かいますが、その様子が『来目路の橋』に描かれている。
辿ったコースを7月1日から道中の印象深い土地の話を順に辿ると、先ず薄大明神に詣でようと山辺の湯に宿る。
12日田沢村に入る。14日細萱村(豊科町)を経て穂高神社に参詣。有明山を鶏放が岳といったこと、宮本(大町市)に年ふる神社(仁科神社)の祭神を紹介し、祭日には物乞いの修行者、乞食がひっきりなしに往来していた。17日、牛越坂を越えて歌道村(信州新町)に入る。20日新町を流れる犀川の様子を「大きな川が一つに合流し、…そこを筏がふた続き、しばらくは竿もとらず、力縄というものを首からかけて、筏を真下から下すと、水底に落ち込むように姿を消してしまう。…慣れた腕でやすやすと乗り下してゆく」と描写している。また、久米路の橋の様子を描写している。
21日八幡村の武水分神社、若宮の更級神社を参詣し、船に乗って下戸倉村に泊まった。22日、行き行き見るとあちこちに綱を引いて渡す船が多い。刈谷原を経て坂木に至り坂城神社に詣でた。23日松代の宿を出立し、24日は善光寺の御堂に詣でた。
善光寺の様子を「ともしびを照らし、あるは高灯篭の光に、御庭の面はゆききする蟻も数えられるほど明るい。…御堂に入った人の唱える南無阿弥陀仏の声は、鯨のほえるように聞こえてくる。」26日、戸隠山に上り、宝光社、中社、奥社詣で、鬼無里村まで足を延ばして風景を描写している。
28日、妻科神社、美和神社を参拝、「揚松というところの山中に来ると、石油のわくのを汲む井戸が川を隔てて二つ並んでいた。」と描写している。その後、北国脇往還をわたり、田子で休み、吉村の髻山では上杉輝虎が山城を構えたところと紹介している。その後、牟礼村から柏原を経て野尻の宿に入った。30日、野尻湖を過ぎて越後国に入った。
菅江真澄という人
菅江真澄は誰に会っても頭巾を離さなかったので、「じょうかぶりの真澄」と呼ばれたと秋田ではいまだに記憶されているという。
姓は白井、名は秀雄、幼名を英二、後年に改姓名して菅江真澄と称す。生涯出生については他人に語らなかったが、宝暦4年(1754)三河渥美郡牟呂村(愛知県豊橋市)に生まれたと推測されている。
「三河の吉田(豊橋市)の植田義方という人の人から学問の手ほどきを受けた。植田家と加茂真淵は姻戚関係にあり、同じ学統に連なる緊密な間柄だったので、自分も義方をとおして間接に賀茂真淵の学風を学んだ」(『菅江真澄遊覧記』1東洋文庫1965年)といわれている。
真澄は読書好きで、学問に精をだすとともに、少年の頃から旅を好んで、そちらこちらを歩き回ったらしい。まず天明二年(1782)美濃に行き、木曽路も通ってみた。続いて、近江路を経て京都へいったらしい。その頃から日記の書き方を練習し始める。
真澄は故郷を出発して、ながい旅をはじめた天明三年(1783)の春から丹念に日記を書きだしている。いたるところの風物を書き写し、その土地にまつわる故事来歴等、絶えず鋭い観察の目を注いだ。どの日記にも、平凡な民衆の日常生活がきめ細かく暖かい筆で写し取られている。
また、真澄は文章ばかりでなく、上手に絵も描いている。晩年の彼は、秋田の村里で絵師と呼ばれていた。画題も広く、床の間の掛軸から襖絵まで何でも描いた。また、日記の中に各地の風物を描き入れていた。
文政五年(1822)の12月、真澄は日記類のほとんど全てを秋田藩校明徳館に献納した。その書目は日記数35冊、それに図絵11冊と「百臼の図」1冊であった。(前掲書)
明治時代になって、藩校が廃止されたとき真澄の蔵書は佐竹家の蔵書となったが、現在はみな秋田県重要文化財となって保存されている。また、明治政府は従来刊行されていない諸地方の地誌を借り受けて写本を明治8年に写し終えたが、それが現在内閣文庫の蔵書となっている。
真澄は早くから本草学を学び、薬草や医療に詳しかった。幼いとこから家業として医療に関心を持っていた。「日記を見ると、山野の薬草に注意して歩いていたことが知られるし、各地でよく医者の家を訪ねているのも採った薬草の処理をするためだったかも知れなかった。まだ医薬に恵まれなかった北国を旅するには、真澄自身の衣食の途として医療をお行うことは、まことにかっこうな職業だった。」(前掲書)そして秋田で「金花香油」という膏薬をつくって売りだしたという。