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[解説]
「いほの春秋」(イオノハルアキ) - 1784年(天明4年)春に本洗馬の可摩永(釜井)という家で、信濃国に来てから経験した一年間を四季折々の自然の推移と人生の諸相を織りまぜて随筆風に描いた作品。本洗馬の民俗が記録されている。
日記とは異なり、短期間に一気に書き上げた雅文調の筆勢が素晴らしいとされる。地元の人たちに読ませて、与えるのが目的で記された冊子であったといわれる。
その序文には、「われ志那能の国に来りて、かなたこなたをみんとて、しみづながるゝ柳かげしばしと思ふまゝ、ほとゝぎすを聞、紅葉を折、雪を見、梅をかざすまで、おもへば一とせあまりになりぬ。ある日、可摩永とふ岡の一つ家に遊びてけふをくらしぬれば、やま住のこゝ地してければ、いざ此さま、見しこと聞しことを、このいほりにたぐえて、たゝう紙にしるしぬ」とある。
原本は昭和4年に発見されて昭和20年に焼失し、現存しないが、その復刻文が昭和5年に出刊されていて内容を知ることができる。
活字本・菅江真澄全集第十巻 随筆(内田武志 宮本常一 編集 菅江真澄 著 未来社 1974年)
菅江真澄という人
菅江真澄は誰に会っても頭巾を離さなかったので、「じょうかぶりの真澄」と呼ばれたと秋田ではいまだに記憶されているという。
姓は白井、名は秀雄、幼名を英二、後年に改姓名して菅江真澄と称す。生涯出生については他人に語らなかったが、宝暦4年(1754)三河渥美郡牟呂村(愛知県豊橋市)に生まれたと推測されている。
「三河の吉田(豊橋市)の植田義方という人の人から学問の手ほどきを受けた。植田家と加茂真淵は姻戚関係にあり、同じ学統に連なる緊密な間柄だったので、自分も義方をとおして間接に賀茂真淵の学風を学んだ」(『菅江真澄遊覧記1』東洋文庫1965年)といわれている。
真澄は読書好きで、学問に精をだすとともに、少年の頃から旅を好んで、そちらこちらを歩き回ったらしい。まず天明二年(1782)美濃に行き、木曽路も通ってみた。続いて、近江路を経て京都へいったらしい。その頃から日記の書き方を練習し始める。
真澄は故郷を出発して、ながい旅をはじめた天明三年(1783)の春から丹念に日記を書きだしている。いたるところの風物を書き写し、その土地にまつわる故事来歴等に絶えず鋭い観察の目を注いだ。どの日記にも、平凡な民衆の日常生活がきめ細かく暖かい筆で写し取られている。
また、真澄は文章ばかりでなく、上手に絵も描いている。晩年の彼は、秋田の村里で絵師と呼ばれていた。画題も広く、床の間の掛軸から襖絵まで何でも描いた。また、日記の中に各地の風物を描き入れていた。
文政五年(1822)の12月、真澄は日記類のほとんど全てを秋田藩校明徳館に献納した。その書目は日記数35冊、それに図絵11冊と「百臼の図」1冊であった。(前掲書)
明治時代になって、藩校が廃止されたとき真澄の蔵書は佐竹家の蔵書となったが、現在はみな秋田県重要文化財となって保存されている。また、明治政府は従来刊行されていない諸地方の地誌を借り受けて写本を明治8年に写し終えたが、それが現在内閣文庫の蔵書となっている。
真澄は早くから本草学を学び、薬草や医療に詳しかった。幼いとこから家業として医療に関心を持っていた。「日記を見ると、山野の薬草に注意して歩いていたことが知られるし、各地でよく医者の家を訪ねているのも採った薬草の処理をするためだったかも知れなかった。まだ医薬に恵まれなかった北国を旅するには、真澄自身の衣食の途として医療を行うことは、まことにかっこうな職業だった。」(前掲書)そして秋田で「金花香油」という膏薬をつくって売りだしたという。
概要
「天明三年、のどかな春二月の末近いころ、父母に分かれ、故郷を後にした旅だった」という冒頭からはじまり、その年の三月半ばに飯田の宿舎についた。宿の前を通りがかった昔馴染みと出会い二人で花見を楽しんだ。四月一日、市田へ行き池上某に二週間ほど滞在する。
五月、知人の三石三春という医者を訪ねた。付近の養蚕の様子が記され、田植えのためにかりしき(ナラ、カシワ、クヌギ等の若葉の梢を苅り束ねともの)を馬につけて山から田へ引いていき、田面に敷いて何頭もの馬に歌を歌いながら踏ませる様子を記録している。
また、初嫁、初婿が田植えの祝いとして田におり、人に交じって田植えをする習慣で、大勢の早乙女がこの婿、嫁を目当てに田の泥水を投げかけ、追い回す習慣がユーモアに記録されている。
大田切の急流で土橋を渡ろうとした子供が馬ともども急流に流された話も出てくる。
その後小野村を経由して五月二十四日、桔梗が原(塩尻市)に着く。ここで長逗留をしている。洗馬、松本、和田等の友人を訪ねて得意の和歌を詠みあったり、神社、仏閣を訪ねている。
当時の七夕の様子が「子供たちは小さい人形の頭に糸をつけて軒に引き渡し、日暮れの空を待ち、女の子はお化粧をし、きれいに着飾って大勢集まり、ささらをすって歌をうたう」と描写されている。
七月から始まった浅間山の噴火が遠く離れた塩尻市でも「昼頃からいよいよ勢いを増して、雷のごとく、地震のゆさぶるように山や谷に響き渡り、棚の徳利、小鉢などは揺れ落ち、壁は崩れ」と伝えている。
また、近郷、近在を訪ねて、和歌を詠み、友人と交流している。そして、八月十三日には姨捨の月見に友人と出かけている。
その後、松本、安曇野方面まで足を延ばし色々と見聞し、当時の様子を記録に残している。