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[解説]
天明3年(1783)の浅間山の噴火は、江戸時代における最大級のものである。この騒動記は、噴火の様子、その後に起こった上信騒動、上州側の村々の被害状況の記録からなる。末尾に天保5年(1834)に永井義遊が写したとあり、その前年が天明3年から51年にあたり、凶作で世の中が困窮したことを記している。天保の飢饉になったことで半世紀前のことを回顧したのだろう。そして嘉永4年(1851)に桜井条右衛門から買い求めたものとある。
噴火の様子では、この年は孟夏(旧暦4月)に大焼けとなり、煙が何千丈も立ち上った。旧暦7月からの大焼けは大規模で、6日から8日には前代未聞の大焼けとなった。軽井沢宿などが焼失したことや、上州側の大きな被害を記録する。特に鎌原村については、残らず埋まってしまったこと、670人余のうち90人ほどしか生き残った人がいないことなどを記す。さらに利根川に流死した人馬が流れたことも記録している。ここで沓掛川を境になぜ信州では砂が降らなかったのかを考察しており、善光寺如来の御恩であると解釈している。
続いて上信騒動について記す。浅間山の大焼けで陽気が不順となり、作物が不作、穀物値段が上がったことなどで、9月29日に騒動が始まった。最初は規律を守り要求をしていくと申し合わせていたものの、騒動勢は各地で打ちこわしや焼き討ちを行うようになった。
佐久の各地を回った騒動勢は、小諸城下を目指した。この記録の特徴として、藩の動きが詳細に記されていることがあげられる。家老牧野軍兵衛は、騒動を鎮めるために城下に入る前に退けようと主張し、黒革威の鎧、緋の陣羽織を着て備えた。しかし藩主牧野遠江守(康満)は、それを許さず、結果小諸では炊き出しをして、騒動勢を通過させた。
その後、騒動勢は小県の各村を経て、上田城下を目指した。記録では上田藩の対応も書かれている。家老の評議で、年長の木村新助が小諸と同様に炊き出しをして通過させることを主張したが、師岡嘉兵衛の意見で強硬策に決まったことが記されている。そして伊勢山村の庄屋の活躍へと話が続いている。徳川家康や村上義清などの例をひき、少数の勢が多数に勝ったことを称賛している。
最後の上州の村々の被害の記録は、大笹村から始まり、最後に鎌原村の様子を伝える。50ほどの村が書かれているが、村ごとに改行されておらず、読みにくくなっている。それぞれの村によって被害規模が違うので項目は同じではない。鎌原村の場合は、村高・内泥押高・流死者数・流死馬数・飢人数・流家数の順に書かれている。また村名の誤記とみられるものが何か村かある。祖母嶋村が祖丹嶋、植栗村が植西米(粟)、古森村が古木次と読める。上州側のことなので曖昧になってしまったかと思われる。被害状況は、さまざまな記録によって差があるという。この騒動記では、流死者の合計が1276人、流死馬576疋となっている。