天保五甲午年正月
天明三年 浅間騒動記
浅間騒動記并泥押 大全
抑信濃国浅間ヶ嶽ハ国中第一之高山也、
平日峯に煙りたへす山半より峯に草木なし、
峯に釜といへる所一面之岩にて形摺鉢のことし、廻り
壱里程有り、平日此内より煙りもへ出る、山面ハ信州に
属し裏ハ北上州に属す、此山四月八日より外山え登る
事叶ハす、間に山登すれハ色々の怪我ありとて
恐れ登るものなし、爰に頃ハ天明三年卯孟
夏より山平日に事替り度々大焼有、煙りハ綿
をほかしたることく何膳丈ともなく立のぼり、夏
中度々大焼ス、既に七月朔日二日頃より就中大焼し
て地響なりわたり、夜に至ハ峯より火もへ上り、
震働する事夥し、近辺之者共ハ如何成事
や出来ぬらんと手に汗をにきり唯仏神
を念し居る処に、弥日増ニ大焼して六日七日
(改頁)
に至りてハ誠ニ前代未聞の大焼なり、煙ハ空
一面に覆ひ、火花八方え飛敷り黒雲天を
覆ひ雲中なり、稲妻のことくなる光り天
地を照す、焼石三四尺より七八尺位の石火となり、
虚空え飛散る有様曲手鞠を投るかことく
地に落ハ、火石くたけて火玉となり往来の
旅人もなく、軽井沢宿・追分・小田井其外近辺
之共足ヲかきりに親を捨妻子を見失ひ夜
中五里七里も逃走る、虚空よりハ火石雨の降る
ことく落掛り音ハ雷電のことくする故、生
たる心地もなく桶木・鉢・戸板・ふとん等をかむ
り漸々命を助り逃去ル、中にハあたまを打
わられなど所々に疵をかふむり血に染ミ逃も
あり、女子・小供の啼さけぶ声ハ誠ニ地獄ノ
(改頁)
有様も斯やと思ふ計りなり、夜中食事も
不喰野道・山坂の弁なく逃走りし故、老人・
小供ハ情力労れ途中に倒れ死るもあり、
中にも牛馬ハ身にまとふものもなけれハ石に打
れ死る事数しれす、助し牛馬も十日計り
飼扶持もせす水ものまされハ只命の助り
しといふ計り也、人も漸々知人所縁の方え
尋行キし者ハ一飯宛も食し、其外大勢の事
なれハ誰ありて銘々養育する者もなく、
道路に倒れ死すもの多し、逃去りし跡ニ而
火石軽井沢宿茅家にもへ付キ、宿半迄
焼失すれとも誰有て火を防く者も
なく、ミな家財・財宝を打捨テ逃去りし
故、跡え盗賊入込こと/\金銀財宝を
(改頁)
盗ミ取ル、此節松井田宿も余程焼失す、漸々
七月十二日十三日ニ至り焼も少ししつまり
し故、諸人家々に帰り初而人心地附ク、石砂
軽井沢宿ニ四尺余降る、是ハ沓掛川を限り
東え降る、碓氷峠御師町の辺五尺計、坂本ニ而
四尺余、此辺よりハ小石交りの砂なり、松井田弐尺
余高崎ニ而壱尺余、此辺より砂計也、右ニ准し
江戸近在蕨宿辺弐寸計利根川通栗
橋・幸手の辺も弐寸余、夫より下総銚子之辺、
出羽・奥州・下野日光山なと迄右ニ准し
砂降る、上州松井田近辺七月六日七日八日之間
昼夜のかわちなく一面之闇となり、家々
に蝋燭・行燈を燈し、諸寺諸山ニ而護摩を
修し、色々の祈念・祈祷昼夜丹誠をぬきんて
(改頁)
行ふ、在家ニ而も家々に打寄香を焼、念仏を
唱、諸人生たる心地もなかりし也、誠ニ伝へ聞神
代に天照大神天の岩戸に隠れさせるへし時も
是にハいかてまさるへき、漸々八日ニ至り鳴も少し
しづまり空も少しあかるくなりし故、
諸人二度蘇生したる心地なり、爰に浅間
山裏の方ニ、ナギ之御林とて凡壱里計りの
御林あり、此山往昔より人不入、尤小木ニ而も切り
取る事堅く御法度たり、然るに近年此辺
のものとも 公儀え御願御運上差上きり取
度段、江戸表え度々御願申上候処、御上ニ而も御益
の筋故、御評議之上願通り可被 仰付由ニ而
願人共江戸表え御証文頂戴ニ罷在候跡、八日昼
時此御林地底よりわき出し、大木不残根
(改頁)
こぎになり一面に押出す、山の麓鎌原村不残
押埋ム、此村家数弐百軒余人数六百七拾人余
漸々九拾人計り生残り、余ハ皆泥中ニおし
流さる、其外村々泥ニ而押流されし所四拾二
ケ村人馬の流死何万といふ数不知、此泥全体
硫黄山より涌出たる泥なれハ、たゝらをミることく
流るゝに火ゑんもへ上り大なる火石流るゝ故、
泥の中を逃去ル事不叶、少しニ而も泥水身ニ
かゝれハ忽チ焼死ス、夫より利根川え押出す、
五料の御関所を押埋ム、是ハ松平大和守殿御領
分なり、爰テ利根七分川と云ハ平塚前え流出
る、三分川と云ふハ五料并新河岸尻え落る、大
木・大石・大泥にて七分川を筑留メし故、利根
川之水干ル、川下ニ而色々の魚をひろいとり、
(改頁)
泥ハ三分川え押出し、三友村之前え筑掛け村家を
押埋、八丁河岸之辺ハ泥壱丈余村々え押拭し
故、人の内え行に庭より直に二階え上る、土蔵ハ
屋根を切りやぶり穴を明け、はしこニて下え
下るゆへ穴蔵のことし、依而八丁河岸の上より烏川
之本瀬なくなり、平押に八丁河岸の南裏通
本庄宿の北下盆後まで水流れ、田畑を荒せし
事夥し、此利根川ハ関東第一之大河にて
板東太郎と云さしも名高き大河一面の泥
水となり、人馬の流死ス、川筋にてひろいあけ、
寺々ニ而施餓鬼大法事の供養川通りの所々ニ
大卒都婆(ソトワ)あり、死人ハ川下関宿之辺、其外
江戸近在行徳(ギヨトク)の辺迄夥しく引上、所々ニ供養
あり、呼嗚(アヽ)此日ハいかなる悪日ニあたりしや、
(改頁)
数万人の命を失ひ、国中の困窮する事
誠ニ過去の因縁にや、是に付ても弥々仏神
を念し心連直にせはなとか神慮も厚か
るへし、大焼之節鳴響し音上方・伊勢・美濃
尾張・五機内迄聞ゆ、遠国の事なれハ浅
間山之焼る事ハ夢しらす、是ハいかなる珍事
や出来ぬらんと村々名主の宅え集り色々ニ
評議せしとなり、当年のことくの大焼ハ語り
伝にもなく、古享録二年甲午年大焼して石
砂降る、今追分辺道端ニ有焼石是なり、乍去
此頃ハ関東の通路もすくなく村里もすく
なきゆへ、当年のことくの難儀にもならす其年
も国中大ききん之由、当年迄弐百五拾四年ニ
なる、其以前も四百年余跡ニ大焼しつる由、是ハ
(改頁)
云伝へ計ニ而慥成る証拠もなけれハ難用、爰に不
思議成ル、信濃ハ沓掛川を限り国中に砂降ら
さる事、当国にハ三国伝来阿弥陀如来安置
まします故にや、往昔信濃ハ甚々辺鄙にて
人の心さしも薄く、諸国にすくれ不骨勝の
国なりしを如来不便ニ思召我信濃に下り、
長く国中の衆生をすくわんとてはる/\
本田善光此国ニおい奉りしに、我あらんかき
り国中の衆生を助ケ災難をまぬかれさせん
との御誓願なり、実に如来の御恩難有事ならすや、
スデニ焼も次第ニしつまりけれとも、碓氷峠七月
七日より往来相止ミ、宿々難相立候段御訴申上け
れハ、江戸表より度々御見分方御出、御普請被
仰付霜月朔日頃漸々碓氷峠切開御普請出来ス、
(改頁)
去レ共三宿之内馬無之助郷より勤る人馬も
なけれハ武家・売人荷物共賃銭相対頼ニ而
歩行にて持越継送る、
御見分方御役御普請惣奉行
遠藤兵右衛門殿 御普請方
町田長三郎殿
萩野文吾殿
石野儀右衛門殿
早川富三郎殿
吉川佐七郎殿
右御役人方御出猶段々御普請被 仰付、所々
用水等御普請悉く出来ス、当年ハいかなる
凶作にや、陽気不順ニして五穀ミのらす、浅
間山焼後二百十日頃よりいよ/\、惣而作物悪敷ク
(改頁)
なり、直々にても驚かるゝニ地頭領主へ訴へ出ル
事櫛のはを引かことく、いよ/\日ニまし暮は
粟其外一切の作物ミのるものさらになし、
何れも地頭方ニても色々御評議有之、在々
ニ而も五穀成就の祈諸寺諸山えあゆミをは
置祈るといへ共、誠ニせつなき時の神頼ミ、今
更神仏の御力ラにも難及御料私領共ニ二度
三度宛之御検見有之、御上ニてもいろ/\
御勘弁御慈悲有之といへ共、国中おし
なへて五つハ皆無、五つ四分三分の作なりし故、
在々山方ニ而ハ夫食無之草木之根をほり、木
茅の実を食し、或ハわらを粉にし、其外葛・蕨・
登古路(トコロ)をほり、漸々露命をつなく、夫故修
行者之類に手の内施ス者もなけれハ、乞食非人
(改頁)
之類道路に餓死するもの数多あり、其外山
方ニ而夫食ニ行詰りたる者ハ、住馴し我家を捨
て浮世縁と出る事数しれず、誠ニ目もあてられ
ぬ事共也、右之通り之凶作故、穀物直段々引上米
壱両ニ五斗位迄其外一切之物不残直段引上売
買に甚不自由ニ相成、国中之困窮大方ならす、
諸国凶作故江戸表も米甚引上難儀之由、上州
にても信州より米不通用ニ相成、甚難儀ニ相成漸々
一日/\と露の命をつなきけれとも所詮行
届、誠ニ無拠徒党を企、九月廿九日上州に騒動お
こる、所々にて穀物貯候者、或ハ造酒屋なとえ大勢
押込焼(タキ)出し等之無心を申掛、色々無心等申懸
聞入無之時ハ即時に打つぶす、夫より上州ニ而打つ
ぶし終に信州え押渡ル、此事信州ニ而も取分
(改頁)
困窮之村々聞とひとしく得たりやおふと
取ル物もとりあへす追々馳集る事うしほ
のミち来ることく、上州・信州両国の勢軽井
沢宿より追分宿・沓掛宿ニ充満(ジウマン)せり、一揆
之大将勢に下知し、随分猥りヶ間敷儀
無之様むさと火を懸ヶ申間敷、只有徳なる
ものノ方え入込利屈を以て無心を申懸ケ無法
様仲間にて吟味いたし合、後日従 御上様御咎メ
有之候ともとも、申開之出来る様可致と呉々申談
けれ共、集勢之事なれハ次第に申合崩れ無法成る
はたらきせし故、後の難儀とこそハなりニけり、
夫より諸勢岩村田宿え押寄る、真先ニ梵天(ホンテン)ヲ
押立鐘・太鼓を打ならし鯨波をつくりて
押寄ル有様大地も崩るゝ計り也、岩村田宿ニて
(改頁)
も夜中寝耳に水ニ押寄せられ、あわてふた
めき町中家々を明け不残逃ちる、御屋鋪
之内よりも出有防へく方便(テダテ)もなけれハ徒党ノ
者のとも爰かしこに馳歩行、所々を打潰し、
尤町内ニ而焼(タキ)出し等も所々にていたしけるゆへ、
心侭に支度等いたし、夜明前ニ岩村田宿を
打立、夫より内山・志賀之辺え押寄、中込・野沢・
三ツ塚・原新田・下県・御馬寄・八幡其外所々に火ヲ
懸ケ金銀財宝を盗とる、初之申合とハ相違し
て此節ニ至りてハ唯火附盗賊之ふるまひ
なり、猶次第に人数増長し佐久郡所々を
らうせきす、此事はや国中ニ聞へ佐久郡・小県
郡ハ不及申、信濃一国之騒大方ならす、近年
之村々ニ而ハ今爰え押寄ルハもふ隣村迄来り
(改頁)
しなとゝ云事驚騒事不斜、所々御大名方ニテ
も御手当に厳重たり、すてに小諸え押寄
と追々注進をありけれハ、城内ニ而も諸家中
打より評議まち/\なり、中ニも城代牧野
軍兵衛諸士に向と申けるハ、徒党之者とも城下え
引入レ候而ハ不相済候間、町はつれ唐松迄人数
を差出し一揆之奴原悉く追退ケ、夫ニ而も
防兼候ハヽ弓・鉄炮之用意をいたし、城下え乱
入候ハヽ皆殺しに可致候間、あれも其心得ニて
用意いたさるへしと下知す、夫より牧野軍兵衛
黒革威之鎧に猩々緋之陣羽織を着し、
大手御門之前に備を立、今やおそしと待請
たり、此事城主遠江守殿被聞召早速軍
兵衛を御前に被召、其方ハ以之うろたへたる也、
(改頁)
但し気ばし違しや、此度之騒動ハ世間凶
作ニ付百姓共今日夫食に行詰り無拠徒党
いたしたる儀誠ニ止事を得さるの筋、何人
たとへ城下え乱入とも何の恐るゝ事かあらん、
町家の者共え申付タキ出し等いたし随分
念頃ニあしらい、何ぞ願之筋等も有之ハ
聞届遣スこそ大名たるへし、夫になんそや
其方百姓つれニ向にかつちうを対し弓・鉄
炮の用意させしとハ言語道断之至也、
早々其儀ヲ相止メ焼出し等之用意可申付候テ、
以之外之御立腹なり、軍兵衛重而唯今の仰
一通り御尤ニハ御座候得共、一通り之夫食困窮之
騒働ならすひとへに火附盗賊なり、すて
に御領分ニ而も所々に火を掛財宝を奪ひ
(改頁)
取由追々注進御座候、是ヲ打捨被置をさへ
御不覚と存候に、おめ/\御城下え引入らん
との思召あさまし御心ならすや、私儀徒
党之もの共を恐るゝにハ無御座候へとも、若
御城下ニ而無法のはたらきいたし火事等出来
し城内迄も誠ニなりあやうく御座候節
ハ悔とも甲斐なし、岩村田なとの様成ル
御屋敷住居とハかわり、もはや一城之
主とならせるへて其所え御心のつかさる
や、世間の人之あさけりをもかへりミす是悲
御得心無之ハ、某壱人罷出一揆の者とも悉く
追退ん、左も無之城下を通し遣し候てハ上田
ニ而之そしりもどかしく御座候と言葉を尽し
諫けれとも、遠江守殿御聞入無之故、無拠御前ヲ
(改頁)
下ル、実もゆか敷勇士なり、弥々一揆小諸城下え押寄
けれハ、町役人共罷出御上より被仰付候て焼出し
等用意いたし置候間、随分緩々と認等被致何
ニ而も用事等御座候ハヽ承り候様城主より之申付
に候といんきんに申ける、徒党之者ともゝ左様ニ
被成候而ハ何ニ而も申分無御座候、此末何卒穀物
下直ニ相成候様御取計へ被下候段申けれハ、尤之
儀なりとて米麦等直段引下ケ売買可致由
書付を出ス、其上見送り之為とて人数百人
被差添無難ニ小諸城下を通し上田領え送り
被遣候なり、夫より海野・田中を打過キ千曲川
を渡り、長瀬・丸子・腰越之辺え押わたるへき積り
之処、折節千曲川之橋無之舟渡しなりけるを
船頭共渡し船の綱をきりおとしける故、渡る
(改頁)
へき方便無之、其日ハ終日大屋河原ニ休足す、
此節所々御大名方にても各領分堺迄人
数を出し固らるゝ松代真田伊豆守殿よりハ鼠
宿・地蔵峠え両所え数百人を以固(カタメ)らるゝ、松本
松平若狭守殿ニ而ハ保福寺峠口・武石峠口・内邑
口・塩尻峠四ヶ所を固らるゝ、其上佐久郡平賀
村ニ預り所之御役所有、是よりも早打を以テ
松本え注進ありけれハ早速物頭二頭足軽
百人武石峠を打越し平賀陣屋を固らるゝ、
諏方伊勢守殿ニ而ハ和田峠大門峠両所え
人数を出さる、木曽ニ而ハ山村甚兵衛殿福嶋ヲ
固らるゝ、其外所々在之ニ而も思ひ/\に手
当等いたし国中之騒働不斜、最はや上田
にてハ領内え入込しと追々注進有たる故
(改頁)
諸家中打より用意厳重たり、此節城主
伊賀守殿ニハ江戸御留守の事なれハ家老之
評議あり、中ニも木村新助当時家老之
内ニ而も老躰之事なれハ進ミ出申けるハ、小諸
ニ而も焼出しに被仰付無難ニ而御通し被成
候間、此方ニ而も右之通りに取計へ城下を無難ニ
通へし、其上ニ而もらうぜき候ハヽ其節ハ如何
様共可致候間、先町家え申付其用意可致
と申けれハ、老人之事故誰否と云ものもなかりし
ニ、師岡嘉兵衛申けるハ老躰之御了簡御尤にハ
存候へとも、遠江守殿御了簡ハ兎も角も此
方ニ而ハ殿様ニも御留守之儀なれハ、未熟の
振舞仕候而ハ後日之御咎も難計候、中々此
方にてハ城下え引入ル義は存もよらす、只今
(改頁)
にも領分え乱入らうせきいたし候ハヽ即
時に人数を差遣し不残搦目捕可然奉存候
間、其用意可申付と申けれハ、諸士之面々
何れも御尤之御了簡其儀可然奉存候、是
若侍之面々いさミ立て競ける、木村
新助兎も角も何れも可然様可被計候、某
事ハ老人之儀故了簡も廻り候間、兎角宜敷
可計ら而候、手前義ハ老衰之事なれハ出席も
甚難儀ニ存候間、宿元え罷帰り休足致度
候間、万端可然頼入候とて帰宅す、此木村新
助といへるハ甚出頭之家老なれとも当時
甚老衰故勤方も心次第ニ可致と被申付
候故、平日之出席も有之隠居同前也、斯テ
徒党之者とも一日大屋河原ニ休足し、夜ニ
(改頁)
入とひとしく上田領瀬沢村を打越、笹井・
伊勢山・横尾・真田等いへる所迄乱入、所々ニ
火を懸ケ打潰ぶしおめきさけんでおしある
く、此事村々より上田え注進する事櫛の歯を
ひくがごとし、上田ニ而ハ兼而用意せし事なれ
ハ早速物頭馬上ニ而乗出す、続て歩立之若
侍五拾人捕手の者とも手にあたるを幸イ
めつたむしやうに生捕ニといへとも、夜中の
事なれハ大半逃去ル、徒党之者共も命限り
に逃去ル、夜中千曲川を打越なとして
水におほれ死るもあり、爰に伊勢山村といへる
所の庄や村中の者を召連川窪といへる所
に待伏せす、此所一方口なる故多く此所え
逃来るを村中之者ニ下知して即時ニ
(改頁)
弐十壱人搦捕、此所え逃来り徒党之内に壱
人大力之者あり、四寸角の弐間木をひつさけ
来り振廻す事苧柄(ヲガラ)を振かことし、流石
大勢之者とも是にあぐみを付ク者なりり
しに、河原之事なれハ四方より石つぶてを投(ナグ)ル
事雨の降かことし、是にすこしよわりし
所を八方よりをし寄て手々ニ棒・鳶(トビ)口
等を以て漸々たゝき伏セ縄をかくる、借昔(ソノカミ)
東照大権現様主従十八人ニ而、三河国大樹
寺え入らせるへし時、四方之門弟を〆数多ノ
出家寺内を固ル、はや敵勢門外迄をし
寄候故、難叶や思召けん 権現様ニも御覚
悟之体ニ見請奉候故、祖道といへる法師表
門の扉を押ひらき、大なる真切を以て只壱人
(改頁)
数万人の中え振廻し即時に数百人打殺す、
寄手の大勢コハ叶わじと不残逃去ル、此祖道が
働き故 徳川家御運御開被遊、此時より
御代々浄土宗門とならせ給ふ、今度徒党
之内ニ而如此之振舞しけるハ彼祖道法師か再
来かと諸人あやしミけり、抑此土地ハ砥石
の城之麓にて此砥石の城には往往昔村上義
清御籠城しけるを、甲州より武田信玄数多の人数
を以て押寄せしに、義晴難叶城を打捨越
後国長尾謙信之方え逃去、此度伊勢山村之
庄や之働き人数之遣く方一通りならさる故即
時に廿人余を生捕、此事跡ニ而心安き者と物
語りしけるハ、古へ武田家之備立之様子ヲ聞
伝へし故、其真似をしたりしに思ひの
(改頁)
外の手柄をしたり、誠ニ軍ハ人数之多少に
よらす備立第一と聞しか此度思ひあたり
しとて咄しけるとなり、誠ニ百姓ニはけ
なけなる男なり、斯而上田城内ニハ猶跡備
之儀堅箇にいたすへしとて大手之内え弓・
鉄炮数百挺を以固らる、城下ハ町奉行
白瀬四郎左衛門と云る者人数を召連町内を
固することに、其夜夜明前迄悪党共四拾人
余生捕、其内夜もほの/\と明けれハ、今ハ
唯寄手の勢計りにて、さしも上州信州
両国を騒立たる悪党とも夕部迄ハ勢ひ
竜の雲に乗することく、寄来る事うし
ほのミち来ることくなりしを、今朝ハ朝
日に霜の消たることく、一夜の夢の覚め
(改頁)
ゆつり□其の大□
たることく跡方もなく成にけり、夫より大や
村ニ而人数を集めかちときを上ケ、悪党
壱人ニ同心弐人ツヽ左右ニ附随ひ、真先ニ
ぼんでんを持セ例を揃ゆう/\と上田え
帰陣ある、一揆しつまれハ国中の者共初而
安堵の思ひをなし悦事限なし、此
事江戸表え早打を以て委細に注進有り
けれハ、江戸表ニ而も伊賀守殿甚御悦あり、夫より
早速御月番御老中田沼主殿殿え申上ケ
けれハ、伊賀守殿御城え被召御老中御例座
ニ而被仰けるハ、此度上州信州両国之百姓とも
騒働いたし国中を騒せし処、其元手勢を
以て右徒党之者とも搦捕騒働早速しつ
まり候段、無比類手柄神妙之至なり、家中
(改頁)
之者とも平日之心掛察入候、猶此末無油断
様可被心掛候、御仕置之儀ハ猶追々此方より差
図可致との仰也、伊賀守殿御請ニ私国元之
家来とも未熟之働き仕候処、御褒美之蒙
御意難有奉存候とて退出ある、其外小諸岩
村田ニ而も追々残党召捕ル、一旦騒働静
るといへとも残党とも爰かしこに俳徊し
ける故、江戸表より両町御奉行牧野大隅守
殿・曲渕甲斐守殿より同心百人上州・信州
え被差越悪党三百人余被召捕候ゆへ、よふ/\
と国中しつまり諸人安堵之おもひをなし
戸さゝぬ御代となりにける、誠に徳川之
御威勢草木の風になびけることく申も
中々おろかなり、御武運長久万々歳としゆくしける、
(改頁)
浅間山焼泥押村々之高其外書留覚之事
一 高弐百八石八斗七升八合 大笹村
内高弐石九斗四升 泥押
大前村 高百五拾七石八斗四升八合 内百石泥押
此反別四町歩余 流死弐拾七人内男拾九人女八人
馬拾疋 飢人三百八拾五人内男百九拾壱人女百九拾四人
流死本家六拾九軒内拾五軒焼失内物置十壱軒
酒蔵壱ヶ所 一古田大膳知行 西久保村
一 高五拾壱石壱斗八合ノ内弐拾四石壱斗六升七合泥押
人別百六拾人内男女五拾四人流死家数四拾軒
不残流失馬四拾疋内弐拾九疋流死 一中居村
一 高四拾弐石壱斗弐升内弐拾六石泥押流死拾人
内男三人女七人馬九疋 飢人百五人ノ内男五拾五人
女五十人流家本家弐拾九軒物置弐軒流失
(改頁)
古田大膳知行所 赤羽祢(根)村 一高六拾弐石六斗五升四合
内三拾八石五斗五合泥押人別百七拾七人内男女拾四人
流失家数四拾五軒内三拾三軒流失馬弐拾八疋内八疋流失
一 深津弥市知行 今井村高百四拾三石弐斗三升八合
内五拾七石四斗九升六合泥押 人別百弐拾三人内男
女四拾七人流失家数九拾軒内弐拾四軒流失
馬拾九疋内七疋右同断 一羽祢(根)尾村 高弐百五拾八石八斗弐升八合
内弐百石泥押 流死人弐拾七人男拾弐人女十五人
馬三拾疋流失 飢人弐百弐拾六人内男百弐拾九人女
九拾九人 流失本家六拾三軒物置拾壱軒土蔵
十軒 麻小屋二十五軒 一深津弥市知行
立石村・神(勘)場木村二ヶ村 高百弐拾九石三斗内九石三斗壱升弐合五勺泥
押人別弐百拾七人内男弐人流失家数五拾七軒内壱軒
流失 一伊丹雅楽之助知行 坪井村高八拾四石
(改頁)
三斗壱升五合内弐拾五石七升三合四勺泥押 人別百四
拾人内女八人流失家数三十軒内弐拾壱軒右同断馬三
十疋内拾八疋右同断 一長野原村 高弐百五拾弐石四斗
七升九合内弐百四拾石泥押 流死弐百五拾弐人内男百六拾人
女八拾七人馬三拾六疋 飢人百八拾三人内男百弐拾三人女
六拾人 流失本家七拾壱軒物置九拾壱軒 一林村
一 高百九拾五石四斗壱升五合内九拾石泥押 流死拾八人
内男七人女拾壱人 飢人拾七人内男拾人女七人流失
本家拾軒物置壱軒 一川原畑村 高百五拾九石
九斗壱升三合内八拾石泥押 流死女四人馬拾八疋
飢人九拾七人内男五拾七人女四拾人 流失本家弐拾
壱軒物置弐拾八軒 一横谷村 高百三拾四石三斗
五升七合内百石泥押 流死九人内男一人女八人
流失本家弐拾四軒物置十軒麻小屋拾七軒
(改頁)
一 松尾村高弐百九拾六石七斗三升三合内百六拾石 泥押
流死男三人馬弐疋 飢人拾人内男五人女五人
流失本家六軒 一岩下村 高六百八石弐斗九升
内九拾石泥押 流死四人内男二人女弐人馬五疋飢人
百弐拾弐人内男六拾三人女五拾五人流失本家拾四軒
半潰五軒焼失十二軒流失物置弐拾八軒
一 矢倉村 高百七拾五石五斗壱升三合内八拾石壱斗五合
泥押 流死十壱人内男六人女五人馬拾九疋
飢人百五拾人内男八拾六人女六拾四人 流失本家
三拾六軒半潰弐軒流失物置五軒右同断
寺壱ヶ所龍徳寺 一郷原村 高弐百廿弐石三斗
壱升弐合内弐拾石泥押 一原町 高九百弐六斗
五升内百弐拾石泥押 飢人百八人内男五拾八人
女五拾人 流失本家弐拾壱軒 一原町上組高
(改頁)
三百八石九斗壱升五合ノ内四石三斗泥押
一 中之条村 高七百拾壱石五斗八合内弐百石泥押
一 西中之条村 高三百八拾七石八斗六升弐合内四石泥押
一 保科弁三郎知行 伊勢町高六百四拾七石九斗四升七合
内百七拾九石三斗六升五合弐勺三才泥押 人別五百八拾
四人内女壱人流失 家数百六拾五軒内弐軒流失
馬三拾五疋内壱疋右同断 一平村 高四百七拾九石
壱斗八升七合内弐拾石泥押 一保科喜三郎知行
青山村 高百九拾九石八斗八升壱合内百拾石四斗
弐升五合三勺三才泥押 人別弐百九拾四人内男壱人
流死家数六拾七軒内拾七軒流失馬弐拾五疋内五疋
右同断 一市城村 高弐百弐拾弐石九斗六升五合内五
拾石泥をし飢人八拾壱人内男四拾三人女三拾八人
流家本家弐拾壱軒物置壱軒流失半潰壱軒
(改頁)
一 村上村 高五百八拾五石三斗八升三合七勺内百五拾 泥押
流死女壱人馬壱疋飢人百四拾九人内男七拾六人女七拾三人
流失本家拾五軒半潰弐軒物置九軒 一白井金之丞知行
村上村高三百弐拾三石八斗六升三合壱勺内百五拾壱石三斗七升九合
泥おし人別弐百八拾七人内男二人流死ス家数七拾軒内九軒流失
一 北牧村 高八百六拾三石内四百六拾石どろおし流死五拾三人
馬六拾疋内男弐十人女三拾三人飢人五百弐拾五人男三百弐十九人女弐百五人
流失本家百四拾七軒内寺二ヶ所土蔵弐十三軒物置
三拾七軒 一南牧 高九拾八石四斗三升壱合内七拾石泥押
流死五人男弐人女三人馬八疋飢人九拾六人内男四十九人女四拾七人
流家本家弐十四軒土蔵弐軒物置拾軒 一川嶋村
一 高六百八拾六石七斗壱升壱合内五百八拾石泥をし流
死百拾三人内男五拾人女六拾三人馬弐拾八疋飢人四百六拾
九人内男弐百九拾七人女弐百弐人流失本家百弐拾五軒
(改頁)
内四軒潰家四軒半潰弐軒泥入流失物置弐拾七軒
土蔵拾弐軒寺壱ヶ所 一祖丹(母)嶋村 高五百五拾
石八斗九升四合 一箱嶋村内百八拾四石泥押
一 岡崎新田 高弐百三拾弐石内弐石三斗泥押 一新
巻村 高百七拾壱石弐斗壱升六合内三拾九石泥押
一 五丁田村 高弐百六拾七石内拾七石泥押飢人三拾
八人内男拾九人女拾九人流失本家六軒物置拾軒
土屋備前守知行奥田村 高百七拾弐石壱斗七升六合
内五石八斗八升壱合五勺泥押 小栗大学知行
新巻村 高弐百六拾石三斗七升六合内五石八斗八升
壱合五勺泥押 小栗大学知行小泉村 高四
百拾三石弐升四合内七拾六石九斗九升泥押 右同断
知行所泉沢村 高弐百八石七斗七升七合内拾壱石
七斗七升壱合七勺七才泥入り 土屋備前守知行所
(改頁)
一 植粟(栗)村 高七百七拾壱石壱斗三升三合三勺内弐拾
四石七斗壱升七合八勺壱才泥押 保科喜三郎知行所
一 岩井村 高七百三拾七壱斗七升九合内四拾四石七斗四升
弐合泥押 右同断知行金井村 高弐百五拾弐石八升七合
内三石三斗壱升三合四勺泥をし 一川戸村 高六
百九拾四石七斗七合内朝比奈右近知行・依田金十郎知行・
富永三平知行・伊丹新(雅)楽之助知行百五石三斗泥押
人別六百七拾八人内女拾人流死ス家数百五拾軒内
五軒流失馬六拾疋内五疋同断 一依田金十郎
知行・富永三平知行アツ(厚)田村 高弐百拾壱石七斗九升
壱合内八拾八石五斗壱升四合壱勺泥入り人別三百
九拾六人内女六人流死家数九拾軒内四軒流失
馬弐十五疋ノ内壱疋流失 一三嶋村 高千百八拾七石
三斗六升八合内三百七拾石泥をし流失拾三人内男四人女九人
(改頁)
飢人弐百五拾人内男百拾八人女八拾七人馬六疋流死
流失本家五拾七軒半潰家八軒物置弐拾八軒土蔵
壱軒流失 一川原湯村 高七拾壱石七斗五合内六拾八石
泥押流死拾四人内男六人女八人流失本家拾八軒
半潰壱軒物置四軒潰寺壱ヶ寺観音堂
壱ヶ所 一横壁村 高五拾五石弐斗七升五合内弐拾
石泥押 一与喜屋村 高百弐拾六石三斗弐升壱合
内七拾石泥押流死五人内男弐人女三人馬六疋飢人
弐拾三人内男拾三人女拾人流失本家八軒物置二軒
一 深津弥市知行古木次(森)村 高四拾六石三斗内弐拾二石
九斗九升泥おし人別八拾八人内男五拾四人流死ス
家数拾三軒不残流失馬拾二疋之内五疋流死ス
一 古田大膳知行袋倉村 高九拾六石三斗四升壱合内
四拾五石五斗六升三合泥おし人別弐百三人内男女十七人流死ス
(改頁)
家数三拾七軒ノ内弐拾三軒流失馬八疋死ス 一古田大膳知行
所芦生田村 高百六拾弐石五斗九升三合内百五拾
壱石四斗九升三合泥押人別百八拾三人内男女百六人
流死ス馬四拾疋不残死ス家数四拾三軒流失 一古田大
膳知行小宿村 高百拾壱石四斗九升四合内九拾八石弐斗
九升四合泥押人別弐百九拾人内男女百四拾九人流死ス
家数六拾三軒不残流失馬八拾壱疋内七拾疋流失寺壱ヶ所常林寺
一 鎌原村 高三百三拾弐石四斗壱升三合内三百石泥押
流死四百六拾六人馬百三拾疋内男弐百四拾壱人女弐百
弐拾五人不残流死飢人九拾三人内男四拾九人女四拾四人
流家九拾三軒物置五軒寺壱ヶ所延命寺
本家壱軒大笹関所番鎌原用右衛門
一 御料所流死人九百弐拾八人 私領所一四百四拾壱人 一御料私領
ニ而馬六百三拾六疋 一御料所流死合九百三拾五人内男四百四拾三人
(改頁)
女四百九拾弐人馬三百七拾五疋 私領所流死合男女三百四拾
壱人馬弐百五疋 一御料所泥押高合四千弐百弐拾
壱石三斗六升九合 一私領所高合千三百四拾四石弐斗
弐升八合弐勺四才 高合五千五百六拾五石五斗九升七合
弐勺四才流死人合千弐百七拾六人馬五百七拾
六疋 右は御改之節人別高反別書記
天明三卯年より天保四年巳ノとし迄五拾
道困窮之暮誠ニ諏方伊那ニ而ハ
一年ニ而又々凶作相成候、世間一同難儀ニ相成候、山々の木色の
根をほりしよくすものおほし此辺ニ而ハ左様も無御座候以上
天保五甲午年写之畢
永井義遊(花押)
(改頁)
嘉永四年二月右名当ヨリ購求
当時持主
桜井条右衛門頼宗(花押)