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信濃国浅間嶽之記
上田倉庫株式会社の株券を利用した表紙には、「天明三年浅間焼及騒動記」とあり、次の「天明騒動記」と合わせて綴じられている。文政9年(1826)に馬喰町近江屋で借用し書写したとあるが、もとは「天明四年甲辰陽月吉日」とあり、浅間大焼けの翌年に書かれたものである。
初めに、浅間山の起源を孝霊天皇の時代に求め、続いて役行者の伝説を語る。持統天皇9年(695)に役行者が浅間登山をし、山中にいた黒蛇を退治したのだが、その後は登る人もなかったと記す。噴火の歴史としては、弘安4年(1281)の様子を伝える。信州追分・小諸より南は4里ほど灰が振り、北は山の麓まで押し出したとする。
さらに天明元年(1781)に越前の僧が来て山に登って一夜を明かした時に、不思議な夢を見て鎌原村に延命寺を開いたことが書かれており、この寺が浅間山大明神の別当になった。
そして、天明3年の大焼けの記事になる。4月9日から焼け始め、7月3,4日が激しくなった。軽井沢・坂本・松井田などの上州の町や村、さらには武州児玉郡まで降灰があり、碓氷峠が通行できなくなった。さまざまな被害を記し、「誠に天変目を覚し大変前代未聞夢の如し」と評している。
上州の被害にあった町村の地図があり、その後に大笹村から被害の書き上げが続いている。流死人や流死馬、流家の数などが書かれているが、項目は村それぞれである。また村名だけ書かれたものもあり、書かれていても他の記録と比べて数が違う村が多い。最大の被害を出した鎌原村は、流死484人となっており、他の記録では、466人とか477人というものもあり、違いがある。
続いて、復旧のための普請の場所と派遣された勘定役や普請役などの名前が書き上げられている。
次には、再び被害状況が書かれている。動植物の異常が報告された。
穀物相場への関心が高く、翌4年の2月までの白米・大麦・小麦・大豆などの相場を毎月記している。初め白米は100文1升4合だったものが、2月には5合にまで値上がりした。他も大きく値を上げている。
記録した意図について、言い伝えばかりではわかりにくいので言葉にして残すことを言う。その中で、百人一首や謡をもじった狂歌などが書かれている。例えば、「江戸のうらにうち出て見れハ白かゆのこめの高きにいきはきれつつ」は、山部赤人の「田子の浦にうち出てみれば白妙の富士の高嶺に雪は振りつつ」が元だとわかる。
最後に、まだ流家が残り御普請も始まらないうちだが、男に2合、女に1合の米が支給され、命の綱とすることを述べている(史料中の八木は「はちぼく」と読み、米のこと)。