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天明騒動記
「天明三年浅間焼及騒動記」の後半部分である。冒頭の目次の後に、小諸領内の羽毛山村(東御市)の西之入伊藤太が安政元年(1854)2月7日に書き記したとある。ただし安政の改元は11月なので、後に付けられた日付とみられる。表紙には「天明騒動記」とあるが、写本の元は、天明3年にできたとされる「旅枕時雨の実記」である。
上州における騒動の発端について、浅間の大焼けにより穀物が高値となったことを言う。そこで買い占めた人を打ち潰しに向かったとする。9月19日一揆勢は松井田に集まり、磯部、板鼻、安中、五料と進んだ。続けて妙義山の天狗に関する逸話を取り上げている。騒動の話に戻り、10月1日坂本一面に松明・提灯が星のごとくになり、梵天を先頭に動員を掛けた様子を記す。梵天は信州に入っても目印として使われた。
そして、2日からの信州での騒動を記す。この文書では、信州の潰し始めを香坂新田としている。そこから岩村田を目指し、布袋屋武左衛門などを打ち潰した。その後の経路は、佐久郡では、志賀、内山、平賀、中込(下中込)、野沢、三塚、桜井、下県、八幡、原新田(五郎兵衛新田)、御馬寄、柏木を経て、小諸城中に至る。そして次に上田城下を目指す。根津、矢沢、新張、朴屋、布下、小井田、真田、横尾などを経て、神川で上田藩や伊勢山村の人達と対峙し、捕らえられ騒動勢は壊滅する。なお伊勢山村名主は「天明信上変異記」(『新編信濃史料叢書(第十九巻)』)では庄右衛門とあるが、ここでは六蔵となっている。
上田で騒動は治まったものの、甲州で騒動が起こり信州へ入るといった情報により各地で対応した様子で締めくくられている。
表現としては、源義経や足利尊氏などの名前を出し、また所々で百人一首の語句を用いて親しみやすくしている。例えば、「是迄四日四夜寝ざりしか、眠色もあらし吹くみむろの山、立田川紅葉の船にさおさして」などとある。
本書の最後に「此本は文学(字)のあやまり、落学(字)有之」とあるように、解読が困難な部分も多い。