陸路廼記

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『信濃名勝詞林』より陸路廼記
陸路廼記

ルビ・注記:長野郷土史研究会 小林一郎

原本 4

陸路廼記 近藤芳樹

【頭注】

此記ハ明治十一年八月三十日車駕(しゃが)東京ヲ立セタマヒテ上野信濃ヨリ北陸道ヲ経テ京都ニ入ラセ玉ヒシ御事ヲ扈従(こしょう)ノ臣近藤芳樹ノモノセシナリ然(しか)シテ長野県ニ入ラセ玉ヒシハ仝年九月六日ナリ此書上下二巻アリ今コヽニハ長野県ノ御通路丈ケヲ其筋ノ許可ヲ得テ抄録スルコトヽハナシヌ

(前畧)これより長野県なり。右の方に浅間山たてり。峯に雲かゝりてけふりのさまみえす。

正風

思ひなきほともしられて浅間山

みねのけふりのけふはたえたる

(徳大寺家従者)滋賀重身

(改頁) 原本 5

秋きりは晴わたれとも浅間山

高ねの雲ははなれさりけり

すへて左も右も枯艸(かれくさ)のみむらたてる野原にて。寒さはけしく耕耘(たかへし)に便あしきところなり。軽井沢にて昼饌(ひるけ)たうふ。しはしのことなからはたこおく家もよろほひ傾きて。所のさまむつかしけなれと。いつこよりいてきたるにか。御輦(みくるま)をかむ人いとおほかりけり。

浅間山麓のみゆきけふそとて

をちこち人そしけくつとへる

七時はかりに追分に着ぬ。

七日霧いと深し。朝立て町のはつれより右にをれてゆくこなたか北陸道なり。一年浅間焼(やけ)たりしとき。落たりし石とて。黒くなれるか。道のかたへに多くあり。やゝきて十石坂といふをこゆ。山の間(あいた)をきり開きて。平らかにしたり。こたひ作りたるにやと問ふに。しかには侍らす。さいつとし旅人のためにとて。県令のかくせさせつるか。おのつからこたひおほん車路(くるまち)にもなりたり。とこたふ。此程の雨にも道のそこなはれぬは。けにさこそとおもはる。ゆくてに橋あり。渡りていさゝか登る所を。から松原といふ。枝ふりよき松ともしけくたてり。爰(ここ)に近きあたりの小学の生徒千四五百人も出て並ゐたり。洋服して白帽なるか多し。袴羽織もましれり。女はうるはしき振袖袴なるか。中には白妙(しろたへ)の衣(きぬ)に。紫の袴。いちやうに揃へて着たるもあり。山中なりとおもひあなつりしに。めのさめたるこゝちなんしける。小諸をすきてよりは。賑はへる村里多く。桑畑こゝかしこにしけりて。こかひする家もあまたありけなり。上田近くなりて大屋岩下なといふ所は。家並もよくて。障子あけわたしたるを。ゆくゆくみるに。床違へ棚のかまへなとして。いときよらなるたゝみ敷並へたるか多し。午後四時ころ。上田に着ぬ。こゝはむかし関ヶ原の役(えたち)に。真田昌幸。城(き)搆へて。子の幸村と共に。徳川氏を扼(とゝ)めたるところなり。思ふに秀忠。此道を過(すき)られぬとも。真田は小身なから。大敵なり。ちかきあたりに屯(いは)みゐたらんはうしろ安からしとて。まつこれを討滅(うちほろほ)さんと。みつからは小諸にとゝまり。先手を遣はして責かゝられしかと。真田纔(わずか)なる軍をもて。こゝにくひとめたりしかは。せんかたなくて俗(よ)に役(えん)ノ行者越といふ山道をへて。上りしほとに。戦(たゝかひ)の期に後れられたるよし。書(ふみ)ともにみゆ。まことに真田親子(おやこ)は傑出(すくれ)たる武夫(ぶふ)なりけり。夜に

(改頁) 原本 6

入てこゝの陸軍小尉懸山盛修を御前(おまへ)に召れぬ。こその夏。肥後の人吉の戦ひに疵をうけて危かりしか。幸ひありて命助かりし人なりとて。今宵の行在所は。もとの域(ママ)のうちに搆へし三階なる学校にて。いときよらなり。おのれらか宿りも。鄙(ひな)の住家(すみか)ともおもはれす。浴室(ゆや)厠(かはや)にいたるまてよくととのへり。

八日。上田を立たるに。拝みにつとへるものとも。大路狭きまて並居たるか。皆うるはしききぬ著(き)よそひて。田舍めかぬさまなり。坂木といふ所を過て。山になれるを。梺(ふもと)になかるゝ千曲川の岸つたひに。道をつけかへたり。これを横吹(よこぶき)新道といふ。いとよき道にて。四百間はかりもありとそ。下戸倉にて昼饌(ひるげ)たうふ。こゝも賑はへる駅(うまや)にて。小学の生徒六百人ばかりも立並へり。姨捨山ちかくみゆ。時も秋にて月のころにさへあれは。のほらまほしけれと。

すへなしや今宵何をは捨ててしも

田毎の月をみむとおもへと

厳夫は独りあゆひかためて行たり。此駅にて。塩尻の原昌言(まさこと)といふ人。戸隠山より拾ひたるよしにて。笛のかたちしたる石を。行在所にもて出て。ふきたりしとそ。こをちかきころ事好める者とも。天のいは笛と名付て。もてはやすよしなり。

高行

とかくしの山にひろひし岩笛の

こゑ雲井にもひゝくけふかな

三町はかりきて柏尾村のかたへに。信濃宮髻塚(もとゝりつか)と誌(しる)せる標(しるし)たてたり。信濃宮とは。後醍醐の帝の皇子宗良親王の御事なり。一町はかり入て碑あり。姨捨山ほと近く住(すみ)侍りし頃。夜ふくるまて。月をみて思ひつゝけ侍りし。これにますみやこのつとはなきものをいさといはましおはすての月。君のためよのためなにかをしからんすてゝかひあるいのちなりせは。裏に大日本史なる親王の伝をゑえれり。李花集を勘(かんが)ふるに。この親王の信濃にてよませたまひし歌。かす/\みたる中に。これにますのうたはなし。親王(みこ)の御口つきにも似す。体(すかた)も拙なけれは。うたかひなきにしもあらす。また君の為云云の御ことのはハ。新葉集に。武蔵の国へ打越て。こてさし原といふ処におりゐて。手分なとし侍りし時。いさみあるへきよしつはものともに召仰せありしついてに思ひ続けける。とみえて李花集のはしかきも同しさまなれは。茲(ここ)に預(あつ)かるへきにあらすまた其碑の傍

(改頁) 原本 7

に苔むす石塔婆の旧きかありてこれを親王の髻塚(もとゝりつか)といへと。いとあやしきものにて。恐らくはこゝなる柏岩寺のうちにありし。ぬししられぬ古墓をうつし建たるものならんとみゆ。おのれ里人に此親王の御(おほん)ことを問(とふ)に。皆御名をむねなかと云り。こは良を長と誤れるにはあらて。古くより良をなかと読ならひ来れるにて。これなん正しき訓なるへき。思ふに髻塚(もゝとりつか)(ママ)とは。此所にて御餝(かざり)をおろしたまひて。其髪(みくし)を埋めたまへるよしならんか。されとそは碑のうらにゑりたる日本史の文に。遂入長谷寺為僧。尋往信濃とみえて。こは新葉集にもはつせにて世を遁(のが)れ侍りし事を云々。又中務卿宗良親王。世を遁れて後信濃国に侍りし頃とあれは。此国にて入道したまひしにはあらぬ事しるし。いかなるをこの者か。かかることをしけん。かくて屋代をへ。千曲川をわたる。舟橋を架(かけ)たり。篠井(しののい)を過て。原村の伊藤盛太郎か許(もと)を御休ひ所としたまへり。此家の後(うしろ)の方。名高き古戦場なれは。苔むせる尸(しかばね)のみなりけんを。皆堀埋めて田畑となせるをみるにも。ゆはつの音聞えぬ御代の恵なん仰かれける。かくて茲(ここ)を北に進めは。犀川西の方より流れきて。千曲川の裔(すゑ)とひとつになれり。千曲と犀とのあはひ。凡(およそ)四里はかりもあるべし。そを丹波島とも。又川中嶋ともいふ。広き間なれと。御輦(みくるま)拝む人所せきまて群(むれ)つとひ。学校の生徒も。其校々々のしるしの旗を。川風に翻へし。待迎へ奉れる。あたかも武田上杉の軍(いくさ)の場にたてならへて。いとみたりけん古へも。思ひいてられて夥(おびたゝ)しくなん。犀川も舟橋なり。わたらせたまひて。長野の行在に著(つか)せたまふまて。学校の生徒も。拝観の人も。引つゝきたり。長野は善光寺に詣つる者のつとひ所にて。幾百人宿りても。狭からぬはかりのはたこやもあれは。田舍にあはせては。よき駅なり。こよひ。三条のおほきおとゝより。侍補のもとへおくらせたまへる消息のおくに。

耳にきゝめにみることも珍しき

たひちはいかにたのしかるらん

とありけるかへりことに。

正風

珍らしき何はあれとも事もなき

みやこのたより聞そうれしき

暮なんとする程。厳夫おくれきてかたるを聞に。姨捨に登るみち。右も左も皆水田なれは。秋のころはこれに移る月のかけ。さこそとおもひやられて。田毎

(改頁) 原本 8

の名いつはりならぬをしられたり。高き所に長楽寺とてあり。其傍に観月堂あり。そこに六丈はかりもやあらんとおほゆる。姨石(おばいし)といふかたてり。姨捨の名より附会(かこち)て名付しものなるへし。姨捨といふも名所にはあれと。伝へたる故事(ふること)は。とるにも足らぬを。かゝる名をさへつけて。人迷はすなん法の師のならひなりける。この山を下りて午後一時八幡に著(つき)ぬ。時きぬれは午飼(ママ)(ひるけ)たうへはやと思へと。此わたり。家毎に門(かと)さして住人もなきさまなれは。せんかたなし。たま/\逢人にとへは。けふ御輩(みくるま)の過させたまふををかみまつらんとて。朝またきより斎戒(ゆあみ)して。皆いでたれは。さる設けある所は侍らさるへしといふ。此国の一宮八幡大神の鎮まりませる里なれは。御社を拝みて。稲荷山にいてたるに。此駅は西の国人らの。善光寺に詣る道にて。人の行かひもしけくなれゝは。さすかに門開きたる店もありて。果(くたもの)なとのみゆるを求めくらひつゝ。唯今なんつき侍りぬる。と云。あはれものゝあやめも。弁(わきま)へしらぬ。ひなの民すら。けふの行幸(みゆき)にはつれては。と家のうち挙(こそ)りて公(おほやけ)を尊みかしこむ。ひとつ心のまことより。拝みにいてたるなりけり。と思ふにも。やぶしわかぬ大御光りそいとゝ仰かれける。

宮内卿 徳大寺実則(さねつね)

旅衣汗もしとゝにしのききて

この山さとに秋をしるかな

九日。けふは長野にとゝまらせたまへり。行在所は善光寺別当大勧進の家なり。午前十時に県庁に臨ませたまへり。県令楢崎寛直(ならさきひろなお)。祝詞を奏し。事務の概(おお)むねをのへまをせり。それより博物処。製糸場。師範学校、裁判処支庁なとをめくらせたまひて。還らせたまへり。其県庁は庁を両所にかまへて。第一の正庁を御休ひ所となし。第二の庁に穀物(たなつもの)もてつくれる菊の花の衝立(ついたて)。犀川のなかれを写せる雛形。栗の葉におひし山繭なと。農業に預かる物のみをあまたつらねたり。また博物館には。春日の作の神像。支那の旧き鉄管。寛永の頃の婚礼の衣服とて男のは木綿に梅竹のかたつけて。三所紋にしたる。女のはこれも。木綿にて。裾に山茶の画ありて。蝶の三所紋なり。其(したて)製は窄袖(つゝそて)の少し広きはかりなり。こは世の人にもみせて。いにしへの驕(おご)らさりしふりをしらせまほしくおもはる。さて午後一時より。所のものとも。いふせき旅のおほんなくさめにもなりなんかとこゝろしらひて、烟火(はなひ)をあけたり。主上(うへ)には。城山の公園よりみたまへるな

(改頁) 原本 9

るへし。昼にしあれは。いかかあらんとおもひつるに。たなひくけふりのうちより。色をわかちてみせたりしは。中々に夜のよりもたくみにて。めつらしかりけり。

正風

みそなはす民の煙や立かへり

君をおもひの花とさくらん

かくて。其おほん帰るさに。寺のうちに立よらせたまへり。楢崎県令。桜井社寺局長。みさきつかうまつり。大本願の副住職とかいひて。大炊御門氏の女なるか。伏見宮のおほんやしなひにて。此寺にいらせられし尼君と。大勧進彼母某とか。おほん導きにて。こゝかしこみそなはせり。おのれはゆふかけて。吟香とともに善光寺に詣つ。堂の大きさ。竪(たて)五十間横三十間。板ふきにて。いといみしき搆へなり。抑此寺は。古へ公家(おほやけ)より難波堀江に棄沈めさせたまへる仏像を。本田善光といふもの取揚て。みつから此国に背負ひ来り。伽藍を建て。納めいれたりしよし。言伝へたれと。こは笑ふにも堪ぬ妄説(みたりこと)なり。其委しきよしは。かゝる記なとにはつくしかたきを。事のついてなれは。聊(いささか)いはんに。仏像を難波堀江に棄させたまへること。欽明天皇の十三年と。敏達天皇の十四年と。再ひあり。善光が取揚たりしは。十三年のにや。十四年のにや。たしかならす。そはともあれ。当時(そのころ)本多といふ氏も。善光といふ名も。あるへきにあらす。おほかた人の姓名なとも。代々に付来れるやうありて。古へは氏に本多。名に善光なと。後の世めける称号はさらになかりしこと。国史の欽明敏達のおほん巻其外姓氏録なとの古書をみてしるへし。かつ此善光か子を善助。妻をやよひの前といふよしに記せるも。同しく妄説(みたりこと)にて。そを笈埃(きゅうあい)随筆といふふみに。日本紀天智天皇三年の件に。春三月。以百済王善光等居難波とある。此善光をヨシミツと訓に読て。吾国の人とせしより。いつしか本多といふ後世の苗字をさへ負(おふ)せ。其子の善助も。善光によりてつけ。春三月とあるをよすかに。やよひの前の名をも設けたる。皆物しらぬ法師とものせしわさなりといへるをみるに。いかにも其より所はかゝる根なしことにこそあらめ。此随筆あなかちに頼むへきにはあらねと。いへること皆ことわりにかなへれは。引て世の人の迷ひの夢をさまさんとす。しかはあれと。これらのことのよしともこそ。皆後の世の作りことならめ寺はいと古くよりありて。初は水內郡の奥山なりしを。詣つる人の

(改頁) 原本 10

便あしとて。今の地(ところ)に移せりとそ。いまのところは。もと神明式に建御名方富命彦神別神社。とある名神大の御社の境內なり。かく尊き神のうしはきませる処とも憚からて。そをはかたへのものとなして。つひにかく中子(なかご)のすみかにうはひとられたる。禍津日(まがつひ)のしはさこそうたてけれ。然るに過し弘化の頃。幕府の寺社奉行なりし。従四位脇坂安宅。下司(げし)の者をこの寺に遣して。委しく祭るところの仏をあらためさせられし時。むかし武田信玄の。しひて御扉をひらきたりしに。忽ち目しひたりといふ伝へもはへれは。といなみつれと。なてうさることあるへき。おほやけの仰なりといひて。みけるに。かの難波堀江よりとり揚しといふは。仏ひとつなるを。これは像みつあり。人々あさましとおもひてなほくまなく探り求むるに。またあやしくすゝけたる仏ひとつ出たり。手にとりてみれは。釈迦の金銅の像にてそひらに百済(くだら)王の奉りしよし彫(え)りつけたり。これ上件(かみのくたり)の堀江より得たりといへる仏にそあるへき。いかなれは。かく正しき証(あかし)あるものをばおきて。さらぬよくもなき中子を。正面になしたるそととかめけれは。ことわりなる仰ことなれとも。守屋大連。信長公なとの如き猛き人のまた出て黄金なれは。鋳かへなとせられんことを恐れて。かくはものしつるなり。といへりとそ。さて水内(みぬちの)神のおほんことをも正さんとするに。うしろのかたに。鎖もて閉たる所あり。何そととへは。こは昔より更に開きたる例(ためし)なけれは。仰にも従ひかたしと云つれと。下司らいたく声はけまして叱(しか)りつるにおちて。皆額をつき。膝折(ひさをり)ふせたりしかは。鎖を引放ちてみけるに。このうちにそ誠の水内神社の神体(ミかた)はおはしましける云々。と阿部連稲といふ人のかける。善光寺正実記といふものにみえたり。これをはむかしより年神堂と唱へて。即ち水内の神にておはしますを。今は八幡社と呼かへて。此地(ところ)にゆかりもなき神となしつれと。今もさすかに殊なる祭ともありて。境内にたくひのなき神なり。さるによりかく大きなる寺なれと。いつこも皆すりなとも皆私の営みなるを。此御社のみ官費もて作らせたまふよし長野県の奏状にもみへたり。塩尻の人原昌言。

跡たえし水内県のおほやしろ

明らけきよにたちかへらなん

いつかかく宮は中子(なかご)と成ぬれと

神はかはらて世やまもるらん

(改頁) 原本 11

此歌。委しく古への事とも考へ合すれは。けにとなんきゝなされける。

十日空曇りてのこんの暑いと烈し。あしたのほと。故佐久間象山の桜賦(さくらのふ)をみそなはし給へり。そも/\この賦は象山畢生(ひっせい)の志を桜花の群卉(ぐんき)に冠たるに擬し。頗(すこぶ)る慷慨の意を寓するものにして。この一篇実に象山のこゝろさしをみるにたるものなり。さるからに先帝乙夜(いつや)の覧にもそなへ奉りしものにて。その勤王の志のあつかりしことおして知らる。象山かつて京師(けいし)にあそひしころ。高崎正風もおなしくみやこにありて親しく交りしゆかりをもて。そのをしへ子花岡以敬といふもの。こたひ正風の旅宿にたつねゆき。象山自筆の桜賦を。いとうるはしく装潢(そうこう)せるを齎(もた)らして。天覧にもそなへまほしうなけきしかは正風もさすかにむかしのことゝもおもひいてゝ感慨の情にたへす。さるへき限りにはかりてけさしも天覧にそなへたるなり。其賦のうつしもあれと。なかけれはこの記にははふけり長野を立せたまひ。新町田子鍛冶か窪なとの村々をへ牟礼をすき。野尻といふ所をゆくに。駅の右のかたに湖あり。不二の形したる山。ほとりに聳へたれは。詩人は芙蓉湖といへりとそ湖の中に島ありて。木の間より神の社もみゆ。やや過て聊(いささか)登る道を跡見坂と云。

水うみの浪ふく風も送りきて

跡見のさかは凉しかりけり

三時過るころ関川に著(つき)ぬこゝより新潟県なり(以下略す)