信濃下向日記

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『信濃名勝詞林』より信濃下向日記
信濃下向日記

ルビ・注記:長野郷土史研究会 小林一郎

原本 16

信濃下向日記   荒木田久老

【頭注】

此記ハ記者カ天明六丙午年三月八日本国伊勢ヲ発シ同廿日善光寺ニ着同年八月五日用ヲ竟(お)ヘテ帰途ニツキ同月廿日無事帰宅セシトキノモノニシテ草稿ノマヽナルヨシナレハ所々ニ意ノ通セザル所並ヒニ語格仮名違ヒ等多シ今コヽニハ其記中ノ二三ヲ挙クルノミ

廿八日(三月)晴

千右衛門より蕎麦到来風味よろし判左衛門庄屋衆へ行く堺屋弥右衛門盆山に朝熊山のかたをうつされたるにめつらしく旅のおもひになくさむる心地して

ふるさとの朝熊山のあさからぬ

人のこゝろをこゝに見しかな

十一日(四月)天気

今日大勧進より九ッ時見舞候様申来る四ッ時世尊院へ土産ものつかはし奉納物為持(もたせ)遣す使者為右衛門奉納金百疋(ひゃっぴき)

奉善光寺仏前歌

天皇(すめろき)のみよとこしへにわか祈る

心はしるやみよの仏も

御堂の前なる柳はわかおほちの君久樹神主の植ゑ玉へるよし人のいふに

植ゑおきし柳の糸をくり返し

むかしを今にしのふこの本

四ッ半時世尊院へ行き衣冠沓[歩行]判左衛門麻上下[順に為右衛門]素袍(すおう)草履取喜六乗物[長刀持傘持] 沓籠

世尊院より御堂へ案内有之候処暫く差扣へ候様申来り候との事暫く待合候処御

(改頁) 原本 17

堂より案内有之世尊院内にて行く内陣毛氈敷きあり堂奉行円乗院内にて着座開帳再拝開帳之後起坐善光之前へ一拝夫(それ)より御坐を下り本坊へ行き家老久保田遠七案内にて座敷へ通る本坊出合其後一飯酒肴

廿四日(四月)曇南風つよく昼のうち暑気強く袷にて忍ひかね夕南方いたつて寒しねぶたき事限りなし松代へ行七ッ時より用意出立道八幡原古戦場なり東南にとり打峠近くみゆ信玄陣取の所なり

物部(もののふ)のたかみおしねり立ちむかひ

たけひきほひしあとゝころみつ

松代三輪六十郎へ行き(下略)

廿六日(五月)晴

幸直より御袖判柳営年中行事借用藤井茂右衛門より蕎麦酒一樽さしさば二枚贈り来る伊勢町寄附金弐両持参石堂村

近日為登戸隠山而予作設歌

みすゝかる信濃の国岩はしる水内県(みのちあがた)に在立須(たちいます)戸隠の山神の山山からか諾(うべ)も神さひ神からか諾もたふとき梓弓腹野ゆ見れは五百重山(いおえやま)い立(たち)へなりて遥々(はるばる)に富士の山みゆ間近くに朝間山(あさまやま)みゆ名くはしいつなの山もこの山のおなしつるねそぬは玉の黒姫山もさし並(なみ)の隣のやまそ群山(むらやま)もよりてつかふる戸隠の神の御稜威(みいつ)をかしこみてぬかつき奉り乎呂(おろ)かみ奉る(下略)

廿七日(五月)晴

今日より西山中回村五ッ半時発[先神明参拝]茂菅村に至る桟道あり

ますかよもすけの道やつかたすゝはな川の河のひの片山きしに真柴もてしからみかけしこのかけ道見上たる山のそはには今もかも落ち来るかとおもふまて千曳(ちびき)の岩ほくえかゝり見おろす川はみなきらひたきち行水むらきもの心もけやにゆくあしもあやほきかけ道見るめすらかしこきかけ道おとのみに聞こし道をけふへつるかも

静松寺(じょうしょうじ)へ行く桂山城跡[落合備中守、此方古帳の落合殿とあり]この城跡より山を堀ると米いつる落合備中守のこもれりし城あとなりむかし武田信玄しば/\攻めけるに落ちさりければ水の手をたゝんとてこゝかしこもとめて終(つい)に此山の半腹なる静松寺の住僧にせめとひて此寺内より水を上ることをしりてそこを絶ちければ城内水つきてせんすへなく自ら城に火をかけて死したりといふ此落合氏も静松寺も我祖宇治

(改頁) 原本 18

久家神主の天正九年檀家交名帳に載せたり静松寺は今も残れりことし天明六年かの寺に尋ね上りて

ふりし世のゆかり尋ねてかつら山

かけてそしのふその跡ところ

茂菅村小林長右衛門へ行き酒吸物蕎麦切三役人昼事帳面相済常宿六左衛門へ立寄り酒吸物振舜(ママ)(下略)

二日(六月)雨

下小鍋村に至る松本市郎左衛門止宿昼後牡丹餅役人檀家不残(のこらず)盃事夕飯そば役人皆々酩酊やかましくてめいわくに及び候事

至小鍋村明日為経飛岩而予歌

ものゝふの手かみおしねり立むかひすゝはな川を河のぼりいやのほりきて川隅の小鍋に至り入山に入たつ道はかしこしと人はいへとも故郷(ふるさと)にかへりて後のしぬひ草かたりくさにも其道をけふそへて行河中に並立いはほ岩の上をとひつゝわたり河のびにかさいはほ岩の下くぎつゝ過て岩ねとりくさとりのぼり岩はなゆはろかに見れは藍(あい)のこと青みたるふち雪の如(ごと)しろき水泡を逆(さかま)きて滝ち落水見るめもよくるゝか如くこゝにもよ消るか如く言のみにあらぬこの道うつし身の世の人みなのいけるきはみえかくの道は八十隈(やそくま)にありとはきけと何をかもおそれみおもはむかくはかりかしこき道もしかばかりあやうき道もしらぬわれすらむらきものこゝろふりおこしゆけは行物を

六月(ママ)(六月)薄曇

戸隠山登山中院宿坊徳善院着[落着杜丹餅]院主出合ひ夫より本坊へ着之段届る彼方より案内有之後判左衛門麻上下にて一万度幷音物持参立帰之後院主案内にて本坊へ行く院代出合院主此節病気故乍残念出合不被申候との事吸物(かたくり岩たけ)重物(たけの子薯蕷)盃肴五種蕎麦切院代玄関送り徳善院へかへり止宿本坊より使者小林文内麻上下白銀壱枚祝儀持参例年之御初穂金百疋持参也

戸隠の山にいほりし朝戸出の

真袖にはらふ天の白雲

何にしかもこひつゝありけむほとゝきす

なかこゑきけはふるさとおもほゆ

都には氷室(ひむろ)奉るみな月も

(改頁) 原本 19

また雪きえぬ戸隠の山

伝へきく薬はまねと白雲の

たなひく上にわれは来にけり

十五日(七月)雨

右膳方より七月六日の書状到来弥八月上旬参り候様に申来

期七月十五日与永井幸直為登于姨捨山而予作設歌

人なかの道ならなくに五百重山(いおえやま)千重山(ちえやま)へなりみすゝかる科野の国石(いわ)はしる水内あがたに下り来て旅ねけ長み夜はもいきくきあかしひるはもなけかひくらしなくさもる心もあらねはまさきつら永井のぬし福草の幸直あかせ秋の立ていくかもあらねは照月のかけをよろしみくさ枕旅のおもひをはるけやるよしもあらんとむら鳥のひきのまに/\丹波島朝川渡り名細いなりの山を越え過てやはたにいたりあつけきに汗かきなけて更級や姨捨山にのほりたち国見をしつゝむらきもの心をなこし家の如紐ときさけてかたりさけ問さけをれは天伝(あまづた)ふ日はかくろひてをとめ子か手にとらすてふかゝみなす山のたをりゆさしのほる月の光は隈(くま)もなく国ぬちこと/\あきらけく照しとほろふ天さかる鄙(ひな)にはあれといにしへゆ今のをつゝに言しぬひ歌おもひするみやひをのいたとり来にそ秋ことに月見月めつこの山の名のみもきゝてわかほりし心もしるくてる月夜かも[依雨不至残念々々]