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越路廼日記
越路廼日記(こしじのにっき) 鈴木重嶺(しげね)【注1】
【頭注】
コハ記者ガ明治十七年七月三十日東京ヲ發シ上野越後ヲ經テ佐渡ヘ渡リ歸路ヲ越後信濃ニ取リ上野ヲ經テ歸京セシトキノ道ノ記ナリ
(上略)廿五日(八月)(中略)二俣(ふたまた)驛を過關川【注2】驛にいたりしはしいこひこ〻の川にかけたる橋をわたる是そ信越の境なりといふこ〻より又けはしき山路にか〻るこ〻をなん小田切といふおる〻ことしは/\なり野尻のすくかつら家といふにいこふそは麥味ひよろしきよしかねてきけれは物しつこ〻をたちてゆくにくたり坂多くともすれは車よりおちもしつへきこ〻ちしてあやふけれはおりてたとりし所もあり拍原大古間の驛々を過牟禮(むれ)のすくわくや某につきしは申過し頃なりけり
廿六日夜半はかり雨はげしく降出てるが明近き項をやみ風いやふきにふく車に乘りて此家を出しは卯(う)過る頃なり風なほやむへくもあらず板家吹やりひさしおちなとしてそを物する人にこ〻かしこはせ廻るめり並木の枝吹をられ枯かへり
たるも有けり田子あら町三輪の宿村を過るに家のうへよりもの吹おちぬへくおほえてあやふけれは道のた〻中をはしらす長野なる善光寺より三四町ほとこなたならん東横町にすめる菅野惟勤【注3】はくすし(薬師)にて歌をこのめり此家をとふらふに大かたならずよろこびあるしす網野延平(あみののぶひら)【注4】と親しき人なれば延平よりあつかりたるせうそこをわたす午過る頃別れて立出んとするをしひてひきと〻むれと歸京の日かず限りあればとてわかるあるしか
白雲のやへしく嶺を越て君
とひきまさんと思ひかけきや
立出んとするに門までおくりて車をよういしつ乘てよといふにまかせやかて乘てはしる此あたりにては稻田むらなる田中鶴子【注5】かいなてならぬうたよみなるよしきけれと思ひしよりは日數を重ねつれはとはて過ぬ阿彌陀堂へもよらまく思へとこも亦道のついてよからねばよそに見て過しつ歸さ路には南原なる伊藤盛太船山なる碓田豊綱高坂喜昌黑彥の米澤千稻矢代の石黑守稻へと立よらまくかねておもひしを所々にて思ひの外に引とめられ日を經ぬればこたびは立よらず犀川丹波川の仮橋をわたり丹波嶋北原を過筑摩川(千曲川)をわたるこ〻も船橋懸わたしたり矢代戶倉を過て坂木驛なる中澤四郎方にやとるこ〻は先つとしも休し家なりおのれか名を聞しりて夜にいり父翁出てさま/\昔のこと〻も語らひたにさく扇など乞ふにまかせて書てやりぬ
廿七日風やみ空曇りふたかるはたつ物は風ほしけに見ゆれといまひと日ふつかのほとはよるのみならせたく思ふはわたくしことにてみ民らの爲には降こそよからめ卯(う)過る頃この家を立いて例の車にてはしる降出たれどほともなくやむ岩鼻をすぎ上田にてやすむ昔にかはらすいと賑はし堀海野なと過て田中のすく藤本某にいたり晝いひ物してやすらふこ〻につきしは己(巳・み)なかば過し頃なり午(うま)過て立いつ車のうへにて眠りたくなれるを道のへに合歡木(ねむのき)の咲たるあり時におくれたれとめつらし
ねふたしとおもふ折から中々に
ねふの花みて目そさめにける
牧野を過小諸の驛にか〻る此町上田につきて賑はし馬瀬川のむらをすき橋をわたるこ〻より坂路多くおる〻所もあり淺間山を見わたすに晴れわたりてたてる煙白雲の立のほりて廣これるかことく遠方人の見やはとかめぬといひけん頃は
いさしらずけふりとは見えさりけり車ひくをのこ(男)にとふにさたかにけふりと見ゆる日とけふのことき日とあるよしおもふに雲と煙と入交りたるにあらしか先つとしあふぎし時とはさまかはりて見ゆ追分の原一里はかりの所燒石のみ多く今もはたつもの(畑つ物)作らんすべなく捨おきぬとぞ驛近くなりて粟稗蕎麥なと見ゆ石を堀捨て畑に開きしなるへし未のさかり追分驛油屋助右衛門【注6】方につくさきにやとりし頃も夏なりしか寒かりしをけふもひとへ衣ひき重ねみのしろ(蓑代)衣【注7】におほひたれと猶(なお)寒し
廿八日てけよし丑過る頃おき出寅にもなりなんとする頃此家を出車にてはしる碓氷の嶺は昔より越なつむ所なるを去年八月よりとりか〻り新道を開きて馬車をくるまの行かひいさ〻か滞ることなきよし聞しかとかくまてよろしくならんとは思はさりき輕井澤のこなたより右の方へな〻めにゆくなり新道のかた二十町はかり遠きよしなれとかちにてももとの山坂を越るものひとりもなしとぞ輕井澤の驛はゆき〻の旅人にものうりひさきこ〻にやとらせなとするをもてなりはひとせしを田畑もなき所なれば今よりはいかにして過すらんと人のうへなから心くるし道のへにきちかう(桔梗)の咲きたるをみて戯れにもの〻の名を
家人にあふときちかうなりにけり
淺間の山をかへり見るにも
谷きしの山の裾をきり開きたる所多し廣きは道のは〻六つゑ斗せはきもよつゑほとはありぬべし此道のなかはにて一たびいこひまたはしりて坂本驛迄ゆき(下略)
【注1】
鈴木重嶺は江戸時代後期の旗本であり、明治期の官僚、そして歌人としても知られている。最後の佐渡奉行を務め、また相川県参事・権令として佐渡に赴任し、10年間島に在住した。この期間、佐渡で多くの門弟を育て、その後『賀筵歌集』には、佐渡の門人65名が寄稿している。職を辞してからは、和歌の世界でさらに活躍した。
【注2】
長野県境に位置する新潟県関川村(現在の妙高市)。江戸時代には北国街道の宿場として栄え、関所があった。
【注3】
浅井洌や田中鶴子らとともに「国風会」を創立し、詩歌の創作と普及にあたった。
【注4】
江戸後期から明治時代の歌人。仲田顕忠(あきただ)や鈴木重嶺に学び、網野家の養子となった後、御三卿の一つである田安家に仕官した。卜占を副業としながら、和歌を教えた。
【注5】
江戸後期から明治時代の歌人、書家。水内郡稻田村(現在の長野市)に、医師の子として生まれる。佐久間象山や善光寺町の儒者岩下桜園に師事し、漢詩文と和歌を学んだ。その後、京都の書家海上胤平に師事して書道に専念するようになった。結婚後は医師である夫を助け、家事や育児のかたわらで書道や詩作に励んだ。東京で編纂された『明治百人一首』において、一首が入選。また、『富士山詠百首』なども残している。
【注6】
追分宿には脇本陣が二軒あり、そのうちの一軒が油屋小川助右衛門家である。元の建物は昭和12年(1937)11月、隣家の失火により焼失した。元々は街道の南側に位置していたが、翌年に再建された際、建物は北側に移された。この再建された建物が現在も残る油屋の本館である。
【注7】
蓑のかわりに雨よけに用いる粗末な衣。