碓氷紀行

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『信濃名勝詞林』より碓氷紀行
碓氷紀行

ルビ・注記:長野県図書館協会 宮下明彦

原本 24

碓氷(うすい)紀行 鋤柄(すきがら)淸雄

 

從三位黑田淸綱(きよつな)【注1】大人(たいじん)に隨ひて上野國【注2】なる磯部の礦泉およひ信濃國別所の出湯にものせん(行く)といて立けるは明治二十年(1887年)二月中の二日也

世の中を思ひ離れてけふよりは

長閑(のどか)に分んうたの中山

うへの(上野)〻停車塲より朝十時發(発)の滊車(汽車)に乘て午後二時過る頃磯部なる旅の舍林益造か許に着ぬ(中畧)坂本の驛(駅)を過て碓氷山にのほる雪いまたふかくのこれり

吹風はまた音さえてうすひ山

深くも殘る去年の雪かな

程なく峠に近つきぬなかめさやかに晴わたれり  大人

碓氷山雪ふみ分てのほり立

見れはさやけし四方の國原

此碓氷山は巖石(岩石)を切開きたるみちにして蜀の棧道【注3】もかくあらんかと遠き唐土のことも思ひやられけり十一時四十分過る頃信濃國なる輕井澤といふ所に到て晝餉(ひるげ:ひるめし)たふ此さとは風寒く屋上みな雪深くして六七寸斗(約20cm)きえ殘れり

大人

信濃路はまた山風の寒けれは

梅のはつ花さかんともせす

程なく一の原にいつ

おのれ

春來れとまた雪深し信濃路は

霞も見えす風さえわたる

しはし行て淺間山(浅間山)の麓を過く

はる/\と煙のみ見し淺間山

ふもとの原をけふ(今日)そ分ける

追分驛を過此所より中山道と越路と別れたれは右の方越の道(北国街道)をとりぬ山おろし

(改頁) 原本 25

の風吹卷て寒し「吾妹子か縫てきせたるたひ衣馴てもさむし雪のふれ〻は」しはし行て小諸の驛を過こ〻は城跡もありて稍(やや)長き町也すこし休らひ馬車を乘替急かせて午後五時五十分過る頃小縣郡本海野驛に着ぬ頓て(やがて)よしの屋何かし方へやとる矢嶋行康とふらひ來て丑の刻【注4】過る頃まて語らひふかしぬ

十八日天氣麗(うららか)に晴たり午前十時頃車に乘て立出十一時過上田に着ぬ爰(ここ)は元の城下にて城跡もあり町も賑はへり是より筑摩川(千曲川)にいたる十一艘(そう)の舟橋か〻れり

大人

筑摩川つく/\見れは爰も又

昔わたりし流れ也けり

こは先つとし此あたりに遊ひしことを思ひいて玉へる也渡りて御所村を過く爱は餘吾(余吾)將軍【注5】の居られし故にかく名付たるとかいふしかはあれと將軍の居所を御所村とはあたらぬ名稱也尚外に故よしあるへしほとなくつ〻み傳(伝)ひに原を過く吹風いと寒し里人のいふことは夏もあつからぬ所なりと四方は山にして殘雪ふかくいまた春のこ〻ちせす

おのれ

消殘る雪猶ふかし信濃路は

ふく春風もさえ歸(帰)りつ〻

午の剋(うまのこく:11時~13時)過る頃別所村へ着ぬ爰(ここ)は御所村のわかれ村なる故にかく名付たるとか頓て(やがて)齊藤喜右衛門方にやとる此家に內湯あれともぬるくして湯あみすることあたはす凡二町斗(約200m)も隔たりたる大湯といふに浴しぬ

繰返し來ても見てしか玉の緒の

長くのふてふ七くりのみ湯

此さとの湯は名におふ七久里迺(の)出湯にして數(数)ヶ所あれともみなみなぬるき湯なり旅の舍より僅に隔たる道のほとりに石湯(いしゆ)といへる岩むろの湯あれとも遠近の村民等こみあひて容易湯あみすることもなりかたきさま也大人近きほとり逍遙せんとのたまへるゆゑ(え)共に旅の舍を立出そ〻ろありきして北向山へのほる此觀音堂は善光寺の如來堂と相向ひて北向に建たるといふ拜殿に遠近の人の奉納せし額あまたか〻れり中にも靈驗(れいげん)記多くありまついちしるき靈驗(霊験)はそのかみ善光寺に開帳ありける時尾張の國の農民同行十六人共に参詣せんと共に生國を立出けるか其內の一人市之助といへる者此北向堂へ詣てしか後に善光寺大地震あり

(改頁) 原本 26

て伴ひし十五人は不殘(のこらず)壓死(圧死)せりと雖も獨(独)市之助のみ九死の中に一生を得しは此觀音の守札をもたりし故ならんと本人か記して奉納せし額あり又近き明治十六年河內國(大阪府)人かおや子三人なりはひの爲に生國を出立回國せしかある日あるし病にか〻り醫藥(医薬)もそのしるしなく終に步行さへ叶はぬ身となりぬれは車をしつらひ其妻是を引其子とし僅に十才未満なれともあとをおして生國河內へ歸らんとて道々神社佛閣を伏拜みつれとも其驗(験:ききめ)なくある日上田の町をよきらんとせし時人の敎へに從ひて此七久里の出湯に浴し辛うして北向山に登り觀音に該病の平愈(へいゆ)を一筋に祈たりしか幾程もなく元の身と成乘來れる車をさへ捨て故郷に歸りたりといふその車今猶堂の前に在三人の寫眞(写真)も殘れり外にも亦此類ひの事ともかき記したる額數(かず)多あれともこと/\くはえよますとかうするほと入相(いりあい:日の暮れ方)のかねの音はるかにひ〻く

おのれ

山寺のかねの音すなり白雪の

殘れるうへにさえ渡りつ〻

十九日天氣よし北向堂の別當寺なる常樂寺(じょうらくじ)に到り住職半田義逢といふ僧に逢ふ

此法師は頗(すこぶ)る敷嶋の道(和歌の道)をも好めるとき〻て

大人

幾はくの人の心をすますらん

北むき山の峯の松風

おのれ

はる/\とみちの奥迄照すらん

北向山の法のともしひ

とよみて出しけれはかへしにとて義逢

北向の山の松風いかなれは

おほみや人の耳に入けん

ほの暗き法のともし火いつよりか

照らし初けんむさしの〻原

とよめり實(実)に風流なる僧也扨(さて)此寺は古き昔よりの山寺也とか歸るさにかなたこなたあるきたるに隣の山麓に古き鳥居たてり本朝緣結神と金して書たる額か〻

(改頁) 原本 27

れりのほり見れはいと古ひたる社あり右の方神樂堂めきたる廣(広)長きものたてり此所より上田の城下遙(はるか)に見わたしてなかめよろし社頭に古き歌の額ありつく/\見れは貞保親王【注6】の歌に

信濃なる女神男神の女夫山

も〻世もあかぬ御手洗のみ湯

また敦仁親王【注7】の歌に

信濃なる相染川のはたにこそ

宿せ結ひの神はましませ

といふみうた記したり又廣(広)前に古さ大木の松あり夫婦松といふさと人のいへらく此松相生なれとも女松の方松かさありて男松にはなしとまた此松を夫婦と名付けたるはおのつから陰陽の形ちになはりたれはなり實に妻夫といはん外なしか〻る名木も去年の雪に二本共に折れたりとて半はより下の方のみ殘れりをしむへし

大人

いかならん契り有てか妻夫松

おなし心に雪折れにけん

おのれ

萬(万)世にかけもと〻めす神垣の

妻夫のまつはいかてをれけん

午後半田義逢とふらひ來る此老僧のいへらく北向山の觀世音は天長二年(825年)の出現にして少さき黄金の佛躰(仏体)なりとまた此邊(この辺)は織田信長の時瀧川一益か領せし地にして元は長樂安樂常樂として世に三樂寺と唱へし三大寺ありけるに今は安樂常樂の二寺のみにて長樂寺は亡ひたり殘の二寺も數(数)度のいくさに屢(しばしば)燒失して什物(じゅうもつ)等おほかたなくなりしよしなるをたた安樂寺の境內にある八角四重の塔のみは大同の頃(806年~809年)建しま〻なりとは又北向山の麓を流る〻河あり相染川といふ

神代より絶ぬ流れか信濃なる

あひそめ河のおとのさやけさ

やとの號(号)を柏屋といふあるし出て大人に歌と額字との染筆(せんぴつ:揮毫(きごう)を乞頓(やが)て淸泉樓の三字をかきて奥へ給ふこ〻に久となんよふ少女ありて何くれとまめ/\しう立働きけれはたはむれに

(改頁) 原本 28

久しくも盡(尽)ぬ緣にしを妻夫山

神にいのりて又もあはなん

と書付て興(与)へけれは大人われもとて

信濃なる相染河にあひ見てし

妹かおもかけひさに忘れし

二十日天氣麗(れい:うららか)也つとめて起出北向山に詣朝餉(あさげ:朝食)たうへて後車に乘て出たつ此さとの出口に一の塚有惟茂塚と彫付たる石ふみたてり余吾將軍【注5】の墓也とかしかはあれと余吾將軍の事は越後國蒲原郡岩屋村にそのかみ會津侯の遠祖正之君か碑を建て事のよしをくはしくしるされたるか今に殘りてうたかふへくもあらすされは此處なるは覺束(おぼつか)なし程なく松山の麓を過くこ〻は松蕈(まつたけ)の名所なりといふ又此邊(辺)は柿の産地にしてたねのなき柿の出るといふ前田保屋神畑中の條なといふあまたの里を經て御所村を過筑摩川(千曲川)にいたる爰(ここ)は先に渡りし河の水上にておなしく十一艘(そう)の舟橋か〻れり

大人

筑摩川長き舟橋はる/\と

むかしをかけて渡りぬるかな

わたりて上田に到る此町にてしはしいこひやかて大屋のさとを過て本海野驛(駅)に着ぬ弓手(ゆんで:左)のかた丸山あり字月夜平といふ里俗親王塚ともいふこは滋野宮の御陵(ごりょう)也遙拜(ようはい)して過く程なく矢島行康か家にいたる午餉(ごしょう:ひるめし)たうへて後御陵に詣んと案內人を賴み裏道傳ひ瑞泉寺門前を過く畑中に古き石ふみたてり是は海野信濃守棟綱入道の墓にして表に瑞泉院殿器山一と斗見たれとも餘は磨滅して讀(読)得ることあたはす裏に大永四(1524年)申年七月十有六日と彫付たり此處(処)なかめありこれより畑道をたとりて月夜平なる御陵にまうてける此所筑摩川(千曲川)を遙に見おろして絶景いふはかりなし

風の音も神さひにけり天皇の

御子の尊の於久都岐所

此邊(辺)冠塚装束塚轜車(じしゃ:貴人の葬送の際、棺を載せて運ぶ車)塚等ありいつれも一見して日暮方歸りぬ

廿一日天氣よしつとめて此家を立いつ途中遙(はるか)に淺間山を見やりて

大人

信濃路を朝立くれは淺間山

(改頁) 原本 29

雪消のけふり立のほる見ゆ

とかくして田中村にいたるこ〻にて車夫とも朝餉(あさげ)たふへしはし休らひて道すから

おのれ

淺間山はる/\見れは白雲の

たなひく上にけふりたつ也

ほとなく小諸驛に着ぬ爰(ここ)も亦むかしの城下也出口に原ありすこし行て右のかた筑摩川を隔て遙(はるか)に一宇の堂見ゆ左右みな峨々(がが)たる岩山にて布引といふさなから布をさらしたる心地せり

見渡せは雪猶深く殘りつ〻

はるかにたてる布引の山

こ〻よりすこし行て道の側(かたわ)らに大なるまつ一本たてり富士見松とかいふこは此處より駿河の不二の峯の見ゆるによりて名付たるよし原のはてに下りさか有笑坂とかいふほとなく追分驛にいたる馬車にのり替て行道の左のかた神さひたる社あり少さきやしろなれとも遠近宮と書たる金の文字の額か〻れりこは何の神を崇(あが)め祭れる宮なるや聞かまほしけれともいそきの道なれは聞得る事あたはすして過ぬ

信濃ちはまた雪深み吹風の

おとこにさゆれをちこちの杜

しはし行て離山(はなれやま)といふ山の下をすく

大人

世の中を思ひはなれて離山

ひとりたてるや操なるらん

沓掛輕井澤なとの驛(駅)を過て碓氷山にのほる峠をこして臼の平といふ處(処)にいたる茶店三四軒たてりすこし休らひてまた行事凡一里はかり熊の平といふ所ありここにも茶店たてり確氷橋を渡る是は谷あひに架たる橋なりまた道のほと五町斗(約540m)下りてなかめをかしき所にいつ

おのれ

千早振神代の事もしのはれて

昔戀(恋)しき吾妻路の空

(改頁) 原本 30

かく口吟(くちずさ)みつ〻下ること凡十五六町(約1,600m)斗にして三本松といふ所にいたるこ〻もなかめよろし折しも雪のうへに夕日さしたり

大人

長閑(のどか)にも夕日匂ひて碓氷山

殘れる雪を花かとそ見し

山を下りて馬をはしらせ坂本の驛路を過て横川なる小竹屋に着ぬ「下略」

 

 

【注1】

黒田清綱 文政十三年(1830)三月二十一日生 大正六年(1917)三月二十三日没
*黒田清輝の養父。実の伯父
*黒田清輝は、日本の洋画家、政治家。名の清輝は、本名は「きよてる」だが、画名は「せいき」と読む。東京美術学校教授、帝国美術院院長、貴族院議員などを歴任した。

【注2】

現在の群馬県

【注3】

「蜀の桟道」とは古代中国の関中から秦嶺山脈(しんれいさんみゃく)を越え、成都にたどり着くまでの道を示す。この道は断崖絶壁にへばりつくように作られたもので、とても危険な道だった。

【注4】

丑の刻 午前1時から午前3時まで

【注5】

余吾将軍 平維茂
平維茂(たいらのこれもち)は、平安時代中期の武将。大掾維茂とも呼ばれる。戸隠山の悪鬼退治で有名。

【注6】

貞保親王(さだやすしんのう)は、平安時代前期から中期にかけての皇族。清和天皇の第四皇子で、陽成天皇の同母弟。

【注7】

敦仁親王は宇多天皇の第一皇子で、893年に立太子し、897年父宇多天皇の譲位を受け即位した。