春秋庵白雄伝

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〔上田の獅子舞 房山獅子 春秋庵白雄伝〕より春秋庵白雄伝
春秋庵白雄伝

二松学舎大学文学部 矢羽勝幸

この文章に使用された資料は、末尾に「引書」として紹介されているが、『続俳家奇人談』・『むつの花』・『藤の下露』などが主なもので他は巷間の人名辞書等の一般書である。

今日加舎白雄の伝記研究はかなり進んでいる。その視点から本稿を評価することはたやすいが、以下確かな資料により具体的にその成否を検討してみたい。なお引用にあたってはルビを除いた。

一、出自・本名等

加舎五郎吉(一説五郎とする)名は吉春。

上田藩士加舎六右衛門の二子也・元文三戊子八月江戸深川の邸に生る(一説元文五年とす)弱冠のとき不幸にして冤名を被ぶり遁世し上州舘林にて参禅。

これは幕末期上田藩儒であった上野尚志の稿本『藤の下露』をかなり参酌した文章で、冤罪、上州舘林の記事は同書に依っている。本名加舎五郎吉吉春は、直系の子孫加舎吉之氏所蔵の系図によって正しいことが確認される。「二子」も正しい。生年も正確で、系図には「八月二十日卯上刻(午前六時)」と記されている。

二、師烏明との離反

俳諧を松露庵烏明に学び昨烏と号す(略)師が俳諧の風体意に諧はざるに依り明和二年茲を辞し冬廼日集の高調を以て一家為さんことを(下略)

烏明は確かに師であるが、白雄が烏明と訣別したのは安永5年のことである。白雄が『芭蕉七部集』の第一『冬の日』(野水等編)に依ったのは天明の後半のことで明和2年ではない。

三、連歌町仮寓説

次に白雄が兄吉重にも隠れて上田の連歌町に住んだ文がみえるが、これも『藤の下露』に記された誤説である。たゞその家を「加賀屋伊藤忠右衛門」とは記していない。ところが上田の原町には確かに加賀屋を名乗り「文架」と号する白雄系の俳人がいた。ただ実名は忠右衛門ではなく平左エ門(白雄高弟常世田長翠の住所控『諸郡銘録』)である。この辺りは花月が新たに調査したものであろう。

四、韜晦のこと

初め雄の藩を去るや深く自ら韜晦して人の姓氏郷貫(ママ)を問ふものあるも笑って答へず。

これは竹内玄々一の『続俳家奇人談』にある記事の孫引きであるが、話者甘谷と白雄は相識の仲であったからこれは信用のできる記事である。

五、門人について

白雄の高弟たちについて「鈴木道彦・建部巣兆…」とその名を列記しているが、このうち森川袁丁(えんてい)・今泉恒麿(つねまろ)・長谷川木海(もっかい)・杉坂石海(せっかい)はいずれも白雄の門人ではない。

六、白雄破門のこと

其師病で命危かりしとき数十金を託して人参を買はしむ。雄其金を懐ろにして北里に遊ぶこと連日金尽て帰り来る。(下略)

「其師」は烏明ではなく、烏明・白雄の師であった白井鳥酔である。鳥酔が危篤状態の時、白雄に数十両の金を持たせて人参を買いに走らせたところ、白雄は人参を買わずに吉原に遊んで師の命終に来なかったという話である。これは、犬猿の仲であった烏明が、白雄の歿後の寛政7年に白雄を中傷抗撃するために出版した『在(あり)し世語(よがたり)』の中の一話である。しかし、この事実は、上田の門人小島麦二の自筆「悼鳥酔叟僊化」の一文で否定される。白雄が破門されたはずの明和6年3月23日、鳥酔は白雄を伴って上田に麦二を訪問する約束をしているのである。

以上の一事をみても白雄が烏明の許を去った理由がよくわかる。