上田の獅子舞
【頭注】
百錬抄に、高倉院天皇承安二年六月十四日、祇園御霊会、上皇有御見物、桟敷被刷之、神輿三基、獅子七頭、去四日、自院被調進之とあり、獅子頭を祇園の御霊会に出されたる事、古例なるを見るへし
【頭注】
江源武鑑ニ曰、天文年中関東ニ祇園踊はやるト、盆踊七夕踊ノ類ニテ、祇園祭礼ニ踊リタルナラン歟、追考スヘシ
上田祭礼獅子踊は、永禄四年辰六月十二日[或云九月十日]此城を築くの始、人夫等戯れに
此踊をなして、笛太鼓鉦の拍子を入れ、地固めをなしけるか逐次恒例となり
て、毎歳祇園会に常田房山両村[共ニ今上田町の内ニ入る]より出て、城主の広庭にて踊る也、維新後
数年の後まては年々の祇園会に出たしけるか、近来ハ高貴の上覧に供ふるとか、其外特
別の儀式なとの余興としてならては踊ること無し、房山獅子の行粧大略左の如し[人員は此外ニ各手代りありと知るへし]
六人 三人ハ黒三人ハ赤色の面をかふる、頭ニ角アリ、頭毛ハ麻の赤と黒とに染たるをふりみだせり
鉦打 月に雲の背紋つけたる上着を着、乕毛なつけたる股引をはき、鉦を左手に
撞木を右手にもち、謡の調子ニつれて面白く打ならし踊る也、其鉦ニ江戸粉川市正
作とあるは、尤も古きものなるかことし(鉦打を俗に魔よけ又は鬼もんよけと呼ぶ)
笛吹 三升紋の上下浅黄色なるをつけ、中ぬき草履をはき、古は城主より拝領の太刀をさす、
一人
太鼓打 〆太鼓を背におひたるものを先キに立て、笛吹と同様の装束したるもの之を
うしろより打つゝ進む也、其太鼓の大さは打皮の径ニ尺、胴の長さ三尺もあらん歟、音
響頗る瀏亮たり、
謡揚 普通の麻上下をつけ手に扇を携へ、声高らかに謡ふ、
猿田彦(一人) 頭に金色の鳥兜を戴き、金色の天狗面をかふり、千早の上着に袴をつけ狩衣を着し、裁
付袴を穿ち、草鞋をはき、手に五色紙千枚にて作りたる御幣と鈴とをもち、腰に太刀を帯び
たり、天狗面は其裏面に左の銘あり(俗に猿田彦を祢宜と呼ぶなり)
右側ニ出目若狭大掾入道藤原寿満作 左側ニ望月清命写之花岡廷吉塗之
此他に更ニ天狗面一個を蔵す、面は赤塗にて今のものに比すれハ大形也、往古用ゐし所といふ
踊獅子(三人) 頭より背迄に黒鶏の毛を飾りたる獅子頭をいたゝき、鈴と小団扇を左右の手に持ち、
浅黄筋染の上着に裁付袴草鞋の打扮なり、腰に五色の幣帛を挟む、
警固 踊警固と単に警固と呼ふとの二種あり、踊警固とは総勢六人にて
獅子踊の真先に進み、単に警固と呼ぶものハ、後押へとして、二列ニならひ孰れも麻上下
にて、一文字の菅笠をかふり、竹鞭を手にし、以て非常をいましむ、組内の町中重立ちたるもの之をつとむ、
此外に花笠をかぶり、さゝら持たる小児数多あり、之を小簓(ささら)といふ、又編笠を着、太刀を佩
(改頁)
き、葉付の竹に五色の短冊をつけたるを持ちたる有り、之を中(ナカ)踊といふ、中踊、小簓は近
年絶て出すことなし、
常田獅子の方、扮粧は、やゝ異るものあり、其異なる点ハ左の如し、
猿田彦所謂祢宜は、黒塗の折烏帽子に赤塗の天狗面、手にハ径五尺はかりの大団
扇と鈴を携ふ、団扇の絵ハ表に鶴、裏に鳬を画き、周辺に五色の紙を附たり、
鉦打所謂魔よけは、黒鶏の尻尾にて作りたるに、鍬形打たるものを戴き、両眼と
高鼻のみを供へたる仮面をかぶる、此面、目の下に鼻を糸にてつなぎ、頭後にしめ、又鼻の下部
に紐をつけ、口にくわゆるなり、頗る異様の観あり、昔は泥貝に穴を穿ちて目とし、厚紙ニて
鼻を作り丹土をぬりたるものなりしと云伝ふ、
其他服装の細部に至る迄、両組多少の相違あり、といへとも之を略す、
祭日定例六月十二日にして、右両獅子踊の外、町方よりは数多の邌りもの、或ハ所作事の踊
屋台なとを出す、祇園牛頭天王ハ御舩の天王とて、舩の形したる祠は車を附して、海野町之
を引出し、お山の天王とて青葉を以て山形に作りたるものハ、原町より之を出す、両町は上田市
街成立の最初の本町なれバ、両町の神官此祭の祭主となり、之を城祭と称す、然れとも
城祭の称は、町民の私に唱ふる処にして、元来ハ祇園祭礼なるは論なし、元禄時代の
貢納帳等を見るに、祭典の補助として城主より米穀を給せられたることハ常例なりし、
また此獅子踊は、もと筰(さゝら)踊と称し、踊のうたにもある如く、筰をす(擦)るを主とせるものなるに、今
筰は廃絶し
て名をさへも失ふに至れるは惜しむへし、筰をするは古風の舞踊ニて、諸国に其遺風残れ
り、若くハ此踊は筰踊のみにてハ興味少きより、後世獅子を附属しめしものにハ非る歟、
房山獅子踊の謡は山本勘助の作なりと云つたへ、或は両組の謡いづれも山本勘助の作と称す、
両歌頗る相似たるも相違のふし多し、其謡左の如し、
常田獅子
道行 〽御門(ごもん)のわきのごんざくら。ごんがねばなが咲いたよなア。【(注記)イ 咲いたとなア 又 咲いたと申す】
前書 〽まわり/\。三ツのくるわを。遅(をそ)くまわりて。出場(でば)に迷ふな。
(改頁)
三十一字
地唄 〽まわり来て。これのお庭をながむれば。こがねこんさが。あしにからまる。
同
同上 〽まわり来て。/\。これのお庭を詠むれバ。いつも大勢(たいぜい)の【(注記)イ絶せぬトアリ蓋シ是ナラン】鎗(やり)が五万本。
前書 〽しなよくかつげ。いつまでかつがに。いざやおろせ小ざくら。
三十一字
地唄 〽五万本の/\。やりをかつがせ出【(注記)イお】すならバ。安房や【(注記)イと】上総は。これの御知行。
同
口上 〽オヽ天王の【(注記)イ大手の】。/\。四ツの柱ハ。しろがねで。中カはこがねで。町がかがやく。
流し 〽御もんのわきのごんざくら。ごんがね花が咲いたとなア。【(注記)イ咲たと申すトアリ】
房山獅子
道行 〽御門のわきのごんざくら。ごんがね花が【(注記)イ小金の花が】咲たとなア。【(注記)イ咲たと申す】
前書 〽玉のすだれを巻揚げて。廻(まわ)る【(注記)イ間(ま)より】小ざくら。お目ニかけましよ。【(注記)イかけます】
三十一字
地唄 〽まより来て/\。【(注記)イ廻り来て/\。下同】これのお庭を詠むれバ。こがねこんさが。
足にからまる。
同上 〽まよりきて/\。これの御門(ごもん)を詠むれバ。御門扉(ごもんとびら)の。せみやからかね。
前書 〽しなよくかつげ。いつまでかつがに。いざやおろせ小筰。
三十一字
〽まより来て。/\。これの御厩詠むれバ。いつも絶せぬ。駒が千疋。
〽わが国は。【(注記)イながむれバ】雨が降りさうで。【(注記)イあめがふるげの】雲が立つ。おいとま申
してもどれ小筰。
道行 〽御門のわきのごんざくら。ごんがね花が【(注記)イこがねのはなが】咲たとなア。【(注記)イ咲たと申す。】
右ノ内、まわり来てハ。或ハ。まより来て。又ハ参り来てニ作る
上田城を築きたるは天正十壱年なるを、諸書を引証して予か上田沿革誌に説く所の如く
なれハ、永禄四年山本晴幸か此城を築きたりといへる、素より妄誕にして従て晴幸の
地鎮祭に此踊を為さしめたりといふも亦無稽の談なり、予は上田沿革誌考証附録
に於て、此獅子踊、恐らくは真田昌幸が天正十一年築城の時のものならんと臆説せしは、亦
可考拠ある説に非す、只口碑ニ依りて記せしのみ【(注記)其唱歌ハ寛永ニ再築城ノ片岡助兵衛ノ作ル所ト云、此事後ニ記セリ】
【頭注】
里伝ニ曰フ、地鎮祭ノトキ常田房山両村ノモノ獅子踊ヲ演ス、此時真田家ヨリ馬ノ手綱ヲ与フ、獅子ノ胸前ヘ掛クル水引ハ此手綱ヲ用イタルナリト
然れとも常田房山の両村人は、各其古きを誇りて決して近代のものに非すと
主張するか故、予ハ証跡なき事を強ゐて争ふを欲せす、然れとも其唄を見るに決して城地
(改頁)
の地固めとして作りたるものに非す、又安房や上総云々の如き何の縁故もなき語を用ゐ
たるを以て見れは、決して往古より此地に行ハれたるに非すして、或ハ彼の片岡か他郷ニ行ハれたるものを伝へて、
たま/\此地のものに其侭枢誦せしめしニ非すやと疑はる[埼玉県騎西に行はるゝ獅子舞の唄の殆んと常田房山獅子の唄ニ類似すると思ヘハ此疑益深し] 且此唄はもと筰踊の唄にして、農民の豊作を謳歌する所謂
田唄の一種なるを、何時の頃よりか之に獅子舞を取合して興味を添へ、又之を祇園
祭の時に奏舞して遂ニ恒例となり、城主も之を珍らしとして賞観したりしより、更に城祭
の称呼を起し、其極附会して築城地固めの時ニ起因すと唱ふるに至りしならすや、祇
園の祭時ハ恰かも此辺農家か田植を了り、農隙を楽しむ時なれバ、田唄の余風なりといふ
も、敢て牽強の説にあらじ、又其唄の文句に城主の武威を頌することあるより、城祭の唄
なりといはん歟、然れとも各処の田植唄麦搗唄等の農民の唄に、城主の武徳を称すること多
きは、封建時代当然にあるべき事にして、之を以て直ちに城祭の唄と称するハ速断ニ過たり
といふへし[上田領内、武石村、保屋村、前山村、馬越村等ノ祇園祭ニモ獅子踊ヲ出ス、其唄モ踊リモ概ね常田房山両村ノモノニ酷似セリ]
唄の文句ごんさくらハ、金桜又ハ御桜なるべく、ごんかね花ハ黄金(コガネ)花なり、こがねこんさ
ハ黄金小草(コガネコグサ)なるべし[城ノ本丸ノ東門入口ニ在リシ桜の大樹ヲ金桜(コンガネサクラ)ト称ス、唄ニヨリテ後世名クル所カ、或ハ此桜アリテ
唄にヨメルカ詳カナラス、予カ幼時マテハ此桜存セシガ、既ニ枯レテ其跡ヲダモ存セズ]
【頭注】
秋田県秋田地方ニ行ハるゝさゝらおどりノ唱歌亦酷似セル文句ヲ有セリ
武蔵国北埼玉郡の北部即ち旧忍領騎西領の地方にて、毎年秋季に至り鎮守の祭礼
等にさゝらと称する古雅なる獅子舞を催すの風習あり、ホウガン[宝冠ノ意カ]とて宝玉めき
たるものを前額に付けし獅子頭をかぶれるもの一人、牡獅子頭を被れるもの一人、牝獅
子頭を被れるもの一人、いつれも前に太鼓をつけ、別ニ中立とて筒袖に腰までの袖無羽織
を着し、立附を穿ちて軍配と棒とを持たるもの一人ありて都合四人立並ひ、傍より笛を
吹きつゝ切り唄を始めとし、次第に節面白く謡ひ出せは、獅子頭の三人は其調子ニ和し、
自ら太鼓を敲(たゝ)きつゝ中立と搦みて舞踊り、始終は年を打喜べるさまを演する也、
切り唄等の唄詞は左の如し
切り唄
〽まはれや水車(ミツクルマ)、こまかく廻れバ堰(セキ)の前を廻れ
(改頁)
〽これのお庭の小枝垂柳(をしだれやなぎ)一枝(ヒトエダ)とめて腰を休(ヤス)めろ
〽太鼓の胴をきりゝとしめて撃てや拍子の切りをこまかに
〽壁越(コ)しに立より聞けば面白や、都ではやる切拍子(キリベウシ)よナ
地唄
〽夏くれば森も林も蝉の声鳴(ナ)りを静めて唄の節(フシ)を聞け
〽立つ鷺(サギ)が跡を走れば水澄まず、庭(ニハ)を荒(ア)らさ立(タ)てや友だち
祝ひ唄
〽まゐり来てこれのお庭をながむれバこがね小粒が足に搦まるヨウホンイ―
〽中立(ナカダチ)の掛けた襷(タスキ)に花咲けば花をちらさず遊べ中立ヨウホンイ―
見るべし舞の名のサヽラと称し、獅子の牝牡と中性とを合せて三頭なる、中立と称するものゝ
我祢宜に類せる、踊の様の頗る酷似せる様に祝唄の文句の全然一章を同しうせる、
豈其間ニ何等の関係無からんや、又ヨウホンイ―の囃し詞は中古の遺風にして近世までも
行ハれ、吾常田房山獅子にもまた此囃詞あり、今転訛してヨホヽイといふに似たり、
以上、予は只臆測の説をいふのみ、別ニ確かなる考拠あるに非す、古記録いつれも此
獅子の事にいひ及ぶものなく、調査の材料なきを憾みとす、尚博雅の考訂を
待つものなり、[此考上田の故老特に田中求達、成沢寛経、広瀬舎頼、丸山久成、諸翁の説を借る事多し]
明治三十三年六月 雪堂主人未定稿
仙石忠政ノトキ幕府ニ請ヒ上田廃城ヲ再築ス、寛永二年(一説翌三年)四月十六日、城主自ラ縄張リシ、翌年中止ノ命アリテ
築城ヲ果サス、此地鎮祭ニ常田房山両村ノ人夫獅子踊ヲ為シテ地固メヲナセリ、蓋シ天正築城ノ故例ヲ再興セシナリ
ト云フ、天正ノ例二ナラヒテ、常田獅子ハ田ヲ植ルノ手フリヲ為シ、房山獅子ハ刈リ取ルノ手フリナルトソ、此寛永再築ノトキ
常田村ノ住人片岡助兵衛作ル所ノ唱歌、今ニ伝フルモノ之レナリ、助兵衛ハ慶安元年八月没ス、法名悟岳宗入禅定
門、其墓今常入村字社宮寺ニアリ、一説助兵衛ハ其先常田氏ニ出ツ、天正ノ頃小牧村ニ片岡助兵衛トテ岩下氏ノ
族アリ、或ハ其子孫ナトニヤト云ヘリ、
今ノ唱歌ハ助兵衛ノ作タルコト疑ヒナシトハ、総テノ古老ノ説ク所ナリ、然レトモ予ハ他郷ヨリ伝播セル歌ナラント思フコト前説ノ如シ、
蓋シ助兵衛之ヲ他郷ヨリ伝ヘテ土民ニ教授セシモノナルヘシ、