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明治天皇御巡幸の折奉りたる地図
明治天皇御巡幸の折奉りたる地図

長野県図書館協会 宮下明彦

明治天皇は明治11年8月30日、北陸御巡幸に向け東京を馬車にて出発。9月6日、上州松井田駅御発輦、7日~10日軽井沢~小諸と経由して9月11日午後4時頃上田行在所(あんざいしょ)(上田街学校・現上田商工会議所)に到着した。

その上田行在所は白亜の殿堂で、3階に露台(バルコニー)が設けられ、明治天皇が上田地域を展望することとなり、その際俯瞰図を作成しておくようにとの宮内省から内命があった。その俯瞰図作成に飯島保作少年が当たった経緯について、花岡百樹(注)は『上田郷友会月報』(第526号)の「飯島翁を追憶して」で次のように伝えている。

「私は前に飯島翁の幼児は神童と呼ばれたことを述べたがその例をいへば、明治十一年明治天皇の北陸御巡幸に当たって、上田を御宿泊地と御治定になって、宮内省から御内達があった。其所で上田では町分で今の市役所の所へ上田街学校を新築して之を行在所に充てることになった。上田では有史以来始めて竜顔を拝する光栄に浴されるという所から、町民の欣喜は洵に狂するばかりで、夜を日に次いで学校を新築した。この校舎は明治三十一年の三月に炎上して今其輪奐の美を知るのよすがもないが、四階建でその頃田舎には稀な洋風の建物で、三階東向に露台があって、此所からご展望遊ばされるご予定であった。其の際、侍従職から御説明を申し上げる資料として、視野に入るだけの俯瞰図を作って、それに歴史説明書を添付して置くようにとの内命があった。私はその当時の事情は知らないが、この行在所の準備や御用向きは旧藩士や房山、山口と称した在分の人は与らずに、主として町分だけの人達が御用を達したものかも知れない。其所で俯瞰図の問題で委員の人達はハタと行き詰った。すると委員の一人であった翁の叔父の先代七郎兵衛氏が、よろしい内の保作に描かせて見ようといって、この製図を翁に言いつけられた。今なら何でもないが六十余年前でその頃製図用具もない時代に、翁は如何にして描いたか立派に作り上げて其時の御用に充てたということであった。これが保作少年十六の時で、そんな関係からでもあるまいが、翁は行在所の御給仕に上った。それは御着輦の日から翌日の御出発までの二日間であった。」

 

俯瞰図には、北側に岩鼻、太郎山、米山城址、烏帽岳、南側には小牧山、夫神岳、半過山等が描かれ、中央に千曲川が流れ、北国街道、上州街道が延び、市街地も描かれている。

なお、飯島保作は理数科が非常に優れていて、その頃、太郎山の標高を三角法で測定している。