信濃奇談
希月舎蔵
信濃奇談序
予為家人時東走西奔専従事医業以糊口妻子傍隆好文芸乎不得暇隙每以為憾児元鎧在膝下以纘吾志述吾事於是業有達也盖我信濃之地里老所伝鄙説奇談頗有類斉東野語者予徵諸史書一々為之解説元鎧随而録之名曰信濃奇談兹己丑二月元鎧没偶探遺筐中得之是雖予之所撰述皆元鎧与焉有力可見余之所言小言隻語必述而不貴可謂其意能勤為子之道今也逝矣悲哉予亦不遺其志伝之世以慰其魂耳
文政己丑仲春
信濃奇談巻之上
諏訪湖
信のゝ国諏訪の湖は、わたり一里はかり、冬になれハあまねく氷とちて、湖のおもて鏡のことく、斧もて穴をうかち、網おろし鯉鯽なと取るを氷引といふ。めつらかなるわさなり。此氷のうへに神わたりといふ事ありて、一夜のほとに白きすちいてきぬれは、是を見て後は人も馬も此うへをゆきゝする事、むかしより年ことの例とすめれと、あやふけもなきハいと奇事になむ。私にいふ。かの神渡りの事は狐のわたる也と、貝原翁ハいへり。是は朱子か楚辞及ひ狐媚叢談なといへる書にしか見へたれは、かくハいへるなれと、是は氷のあつくはれるによりてわれるにそ有へき。西域聞見録に、氷山を往来する事を記して、道路無一定之所有神獣一、非狼非狐每晨視其蹤之所住、践而従之必無差謬云云、よくこれに似たる事なり。神のわたるといひ、狐のわたるといふ両説ともに心得かたし。
- [欄外注記]
- 閑田次筆に、出羽の国八郎潟といふ四里に七里の湖ありて、冬はさなから氷あひて、人も馬も其上を行かふ。又漁人氷の上に火を焼て、暫あれは其処氷ぬけて深き穴となる。其穴に網をおろして魚をとるとそ。 氷の厚きも三さか四さかはかりもあり。云云。
蜜蜂
蜜蜂は紀州の地にて多くかへは、世に熊野蜂なととなふるなり。信のゝ国は山より山のかさなりて、秋の末つかたより山/\は雪ふりしきて、寒さも殊にはやけれは、蜜蜂なとの事は考たる人にも聞しれるものなし。 まいて人家に飼たるハ見し事もあらす。近きころいつこよりか来りけん。そこ爰にむらかりあつまりぬ。はしめのほとは人の害にやなるらんかと焼ころしなとしつ。後には是蜜蜂なりといふ事を知りてけれは、箱なと作りて飼ことゝはなりぬ。文化卯の春の比、夜ことにいつこともなく音楽のをと聞ゆと沙汰せり。いとめつらか成事よといひ伝へのゝしる。白紙物語に、是は西土に鼓妖と言し事のありしも是ならんなと評せり。左にはあらす、かの蜜蜂のむらかりあつまり、或はむらかりとひていん/\として声をなすにそ有けん。其時いまた蜜蜂なる事をしらすして、音楽なといひなせるなり。
鹿塩といふ山里に、おほきなる岩の下より塩水のしたゝり落るありて、里人朝夕に汲て食用とす。白紙物語にいふ。むかし鹿来りて此岩の上にて死したり。跡を見れハかく塩の湧出にき。さて鹿塩村となん名付たるとそ。私にいふ。是河より塩の出るをもて河塩と唱へしを、後に鹿塩と改て附会の説なせしなるへし。甲斐の国巨摩郡にも塩の出る処ありけるよし、甲斐名勝志に見ゆ。また入谷山中に塩水のありける事、友人石川氏語りき。皆この鹿塩山の前後にあたれり。蜀に塩井有、本艸に見ゆ。また井塩山塩池塩木塩石塩等の事瑯琊代酔篇に見えたり。こは所謂塩井なるへし。されとも五雑爼に、蜀の塩井は物をもて投すれハ塩となるといへり。これと同しからす。
狐の玉
我藩士に岡田の某といふ人あり。秋の末つかた網もて三峯川の辺りを行けるに、白き狐のあこかれて右に左に飛て戯るゝを見て、ためらひ寄て網打懸けれは、おとろきあハてゝ逃失せぬ。跡を見れは光ある玉あり。拾い取て見れハ、白き毛もて作れるやうの玉なり。今にその家にひめ置ぬ。五雑爼には、蜘蛛蜈蚣蛇の類にも玉ある事をいへり。また吉田氏にも狐の玉あり。その玉を得しやうは岡田氏と同し。猶他州にも是に類する事ありと聞ぬ。
蛇足
小町谷といふ里のある家に、夜半の比ほひ塒の鶏おどろ/\しく鳴けり。あるし驚き見てけれハ、ふとやかなる蛇ふたつ塒に来りて鶏を巻とらんとす。あるし腹たゝしくて、打殺しつゝ串に貫きて、火もて焼たゝらしけれは足出てけり。あやしうおそろしくおほへ、大路に捨置て人にもあまねく見せけり。いとあやしき事よといひあへりける。陶隠居か本艸注に、蛇皆足あり。地を焼て熱せしめ、酒もて汚ひてその中に置ハ足出つ。また酉陽雑爼にも、蛇は桑柴もて焼は足出つと見えたり。蛇の足出るハ常の事ならんに、古より蛇は足なきものと人々思へるなり。戦国策に、蛇をつくりて足を画を無用のたとへとなし、東方朔か守宮を射て、これを蛇とすれは足ありといひしの類、皆蛇には足なきものとなせしなり。古の人すらかくのことし。今の人は論するに足らず。
鶴 附鴇
文化の頃、木下の辺りに靏の一羽来りて、四五十日かほと去らす。いとめつらかなる事よと、遠近の人来り観る者日毎に絶へす。 里老の語りしは、是より三十年前には鶴二羽今のことく来り居けるに、ある人鉄炮もてその一羽を打殺せり。その人妻子まて打つゝりき死失せ、其家も絶たりとそ。いま年回にあたりて来りたるならんといひあへり。
これより先享和の比、神子柴村にあやしき鳥の止まりけるに、是もまた鉄炮もて打取ぬ。大きなる鳥なり。爪に水かきなとありぬ。名を知れる人もあらさりしを、先人淡斎走り行て是を見、こハ九州にて野鴈といふ鳥にて、詩経に鴇と見えたるは是なりといひし。果して然なりし。かゝる鳥のはるかに山谷を越て一羽二羽はかり来りけるこそあやしけれ。
告天子
近き比松本にて告天子を取けるに、伊勢国にて放つと足に札のありけるよし。また天山翁の彦城日記に、頼朝卿の放てる金の札附たる鶴を捕けるよし見ゆ。彼ハ数百年を経て長生し、是はかゝる小鳥の数十里を超て飛行する、いとくすしきことゝもなり。
蝦蟇
三日町村にて蝦蟇の蝘鼠を取て土に埋みけるに、忽に小虫に化しけるを、三尺あまり隔て口を開て吸こみけるを、見し人ありて語りき。白紙物語に、小平村の俳人介亭といへる者の宅にて、蝦蟇の猫取たる事を載す。また荒井といふ里に、大きなる蝦蟇の目四つあるありて、夕くれことに大なる口をあきておれは、蚊蜂なとやうのものいつくともなく飛来たりて、口に入りけるよし見えたり。蝦蟇の老たるは種々にあやしき事をなす者にや。蝦蟇の箬笠のこときもの、その口より白気出たる事、霏雪録に見ゆと瑯琊代酔篇に出たり。
- [欄外注記]
- 高遠の猪鹿山にも蝦蟇の箕のことき物住り。近き比黒河内氏これを見て其毒気にあたりたりたるにや、其後しはらく心地病りとなん。これその箬笠のことしといへるのならん。箬ハくまさゝなり。くまさゝもて作りし笠をいふ。
鎌鼬
人忽に地に踣れてみつから其いたむ処を覚へす、刀もて切たることき痕つくを、俗にハ魔物来りて人に触るゝなりといふ。その名を鎌鼬となんよふ。あやしき病にそありける。東涯翁の盍簪録には、信州のミを挙たれとも、信州のミに限れるにあらす。北越奇談にも見え、また断毒論には、関東にあるといへり、閑田次筆にそのへんに[閑田子は京師の人なり]此事ありし事をあけて、風神太刀を持といふより、かまへたちと称ふ意なりと見ゆ。按するに井沢長秀か俗説弁に、黒眚をかまいたちと訓せり。黒眚はしゐといふもの也。大和本草に詳に見ゆ。
三足鶏
近き頃大泉村のある家にて三足の鶏を生しぬ。輟耕録には三足の鶏およひ四足の鶏の事見えたり。されハ恠しけなる事なれとも、絶てなき事にもあらす。高井郡に四足の鶏を生せし事ありと、門人市村逸斎藤語りき。
馬角
芝尾村のある家に馬角なりとてひめ置ぬ。享保の比その家にて飼ける馬、三年か間年毎に脱てはまた生しぬとそ。燕の太子丹か秦に質たりし時、馬に角を生せハ国に還さんといひしハ、世にあらさらん物を望しなり。されハ西漢文帝十二年成帝綏和三年、およひ晋武帝大康元年、馬の角を生せし事彼史に見ゆ。本邦にても馬角もて珍宝とし、身延山等にもありといふ。[身延鑑に見ゆ]たゝし呂氏春秋に、人君失道馬生角。また京房易伝にも、臣易上政不順馬生角と見えたれは、禎祥のものにはあらす。
寛永年中武州江戸に駿馬あり、耳の下に角を生す。長二寸余あり。阿部対馬守重次此馬角一隻を日光山 東照太神宮の斎庫に進呈す。其説羅山文集に見えたるよし、漢語故事にあり。
降毛
文化乙亥の八月朔日、俄に空かき曇り、雷電なり渡り大雨降そゝきける。後に見れは、白き毛木の枝庭の垣なとに幾らとなくかゝりてあり。諏方郡にては七月二十三日に毛降りしとなり。西土にても此事たま/\ありて正史に載せぬ。漢書武帝天漢元年三月、天雨白毛三年雨白氂[氂ハ毛の強直なるもの]晋書武帝泰始八年五月、蜀地雨白毛、隋書開皇六年七月、京師雨毛如髮尾、長者三尺余短者六七寸、通鑑天順帝至正十八年五月、山東地震天雨白毛の類、西川氏の怪異弁談に詳に見ゆ。また白紙物語に載す。文化丑の十一月廿二日、未の時はかり、武刕多摩郡に、おほそらいかつちのことくひゝきわたれる声聞ゆ。其響やう/\細くなりてやミぬ。 八王子の子安宿の民忠七といふものゝ作れる、田上野原といふ所の麦の中に、あやしきもの落地とよみて、白きいき高くのほれり。里人あやしみよりて見れは、田の中四尺はかりくほミいりて、黒くこけてわれたる石四ツ五ツはかりおちたりけり。[長三尺はかり広厚サ五六寸はかり]村長ともひろひとりて、おほやけに聞えあけしとなん。私にいふ。およそ物天にありては形あらすして、地に落れは形をなす。雨露霜雪ハ常のことなれは、人々あやしともせす、時には石とも毛ともなれるは地に感して成るにて、はしめより大空に石や毛のあるへきものかは。俗人はいつこの山よりか抜出たる石にやなといへれと、石をは左もいふへけれと、毛をはなにとかいはん。石の落し事も春秋経より世々の史伝にたえす見えたり。あやしむに足らす。世には雹の降れるもいつこのか山の氷の風にて吹出せるなりといふ。笑ふに堪たり。輟耕録に、至正丙午八月辛酉、上海県に落る石あり。尾より首まて尺に盈云云。
浮巌
赤須村の東の天龍川中に大なる石あり。その頂すこしく水面にあらハれたるに、何ほとの洪水にても常のことく同しやうにのみ見ゆるを、土人浮巌と名付て、水に随て浮沈すといへり。いとあやしきことなりける。五雑爼及ひ瑯琊代酔篇に、地肺浮玉といふもの水にしたかひ髙下するよし見ゆ。かゝる事もあるものにや。海内奇観に、浮山在安慶府城県東九十里と見えたるも、かゝるものなるへし。
鸚鵡石
大艸に鸚鵡石あり。人其傍にて笑語すれハ、かならすそのことくに応せり。 中尾村にも木魂石と名付たる地ありて、是も其声相応せり。 伊勢にも市野瀬谷に鸚鵡石あり。東涯翁の遊勢志に見へたり。唐鄭常か洽聞記に響石といへる、これとまたくおなし。又按するに、雲林石譜に見えたる鸚鵡石は、その形の似たるもて名付しといふ。倶に盍簪録に出たり。 近頃志摩国にても声の応する石ありて、新鸚鵡石と名つけたる事回国筆土産に見ゆ。
いはな
伊那郡の人、或時木曽へ行とて萱平といふ所を通りけるに、すゝ竹いくらとなく生ひ茂り、木曽川の流をおほへり。其竹の一葉枝なからいはなといふ魚に化したる有。其人折取て持帰りけり。 いとめつらかなる類ゐなれは、そこ爰にかり伝へて、我家にも持来れり。いはなは鰧魚の類にて、山深き川に生すめり。是無情の有情と変るものにして、陳麦の蝶となり、稲米の蠧となり、署蕷の鰻鱺となり、腐艸の蛍となり、爛灰の蛇となるの類なるへし。友人安田氏、栗の技の垣に用ひたるか、土に付たる所虫に化したるを見たりとなん。[山蓼ハ和名わくのてなり。是も時には石竜子に化しぬ。よりて又とかけ艸ともいふとなん。朽瓜魚と化しぬる事ハ列子にも見えたり。]
河童
羽場村に天正の比、柴河内といふ人住ぬ。ある時馬を野飼にして天龍川の辺にはなち置けるを、河童といふもの此馬取んと手綱とらへて牽けるに、さなから自由にもならす、かなたこなたへ行を、かの河童縄をとらへかねてや、おのか腰に巻て川へ引入んとするに、馬はひかれしとあらそひいとみけるか、河童かくてはかなはしとや思ひけん、かの手縄をたん/\におのが身にまとひつけて、力のあらんかきりあらそひ引て、今少し此水の中へ引入たらんにハ、いかに大きなる馬なりともとらてやは置へきと、いとむうち、時うつり曰くれたり。寔や小ハ大にかなひかたく、終に馬は走り出しておのか家へはしり来る。河童は縄をいく重も身にまとひたれハ、とくにいとまなくひかれ来るさま、人々はしり出て、あなめつらし、希有の事哉と集ひよりて、きひしくしはりつなきて、厩の柱にくゝりつけ置ぬ。あるし仁心ある人にて、無益に殺すもさすかにあはれミて縄解てはなちけり。その後その恩を報せんにや、川魚なと取て戸口におきし事度々ありしと、小平物語に見えたり。今も猶里老ハ語り伝ふ。近き比にも河童の小児なと取ける事多くあり。河童とかきてかつはとよふハ、かはわつはの略なり。本艸渓鬼虫の附録に、水虎といへるは、此たくひにやと、貝原翁いへり。私にいふ。是水獺の老たるものにや。貝原翁又いふ。淮南子に魍魎状如三歳小児赤黒色赤長耳美髯、左伝注疏に、魍魎ハ川沢の神なり、と見えたる、この河童に似たり云云。
信濃奇談巻之上終