信濃奇談 下

原本 2~4

信濃奇談巻之下

堀内元鎧 録

原本 2~4

駒嶽

駒岳は宮田の西にあたりて、羽広山宮所村の龍崎まても山脉打つゝきけり。その処に観音ありて馬の疾を守り、馬の疾ある時にその土の人祈れハかならす効ありといふ。私にいふ。是名山霊秀の徳の及へるなり。山の頃に大なる駒の住けるよし。寛永中に尾州の有司上の命を請て山廻りし時に、絶頂にて駒の雲に登りしを見たりと、新著聞集に出たり。其後にも頃に尾毛の木の枝にかゝり、あるひは馬糞なとの有しを見たるといふ事、安藤氏の記、及回国筆土産等に見へたり。世の人あやしう思ふめれと、名山の徳もとより人の智力もて測り知れる事の多けれハ、おのすから霊物を産すましきにもあらす。 天正の頃織田公天下の諸侯を募りて駒嶽を狩し、良馬を得て軍用に備へんと謀り給ひしか、不慮にして生害せさせ給ひその事止たりと、三季物語に見へたるを、みたりに神物を得まく欲したまひしゆゑに、その咎を得給ひしなりと、後の人評しき。回国筆土産には駒の形小なりといひ、新著聞集には大なりといふ。もとより神物なれハ大ともなり小ともなり、変幻きわまりなきものにや。

  • [欄外注記]
  • 風越の峯も、飯田より宮所迄の一山の総称なるへし。今の白山の峯のみ風越と心得たるは誤なり。詞華集家経か歌徴すへし。

原本 4~7

疱瘡

御嶽の里は、福嶌宿の西にあたり山深き所なり。むかしよりその里の人疱瘡をやます。たま/\壱人弐人病む者あれは、これを飛疱瘡と名付て遠き所に出しをき、疱瘡を病し人をつけて介抱させ、日を経て後に家に帰しぬ。かくすれハその処に伝染するといふ事なしとそ。甲斐国に橋本宗寿といへる医士あり。其説にいふ。いつれの所にても、御嶽のことくにせハ疱瘡の種は尽ぬへし。此病、中華にては晋建武中、 本邦にては 聖武帝の時よりはしまりぬ。その以前の人はやますして済ぬ。天行疫気にもあらす、又胎毒の内より発する病にもあらす、人より人に伝染する病なれは、避て免へきものなりとて、断毒論三巻作りて出しぬ。御嶽の里はかりにもあらす。信州にても秋山の里、また飛騨の白川、美濃の苗木、伊豆の八丈嶋、越後の妻有、紀伊の熊野、周防の岩国、伊与の露峯、土佐の別枝、肥前の大村ならひに五嶌、肥後の天艸等にても疱瘡はやますとなん。韃靼の疱瘡をやまさる事ハ五雑爼にもいへり。さらハ橋本氏の説にしたかハんにはその種の尽ましきにしあらす。されと止むへからさるの勢あり。橋本氏その一を知りてその二をしらす。天地の間正邪ならひ行ハるゝ事、疱瘡のミにあらす。 異端の道を害する周に楊墨あり。漢に老あり。南北朝の間に仏あり。其世の賢人孟子をはしめつとめてこれを防きしか、その時にはやまさりし。今 本邦にては楊墨と老とは絶てなし。ひとり仏の盛んなる事前代に越たり。いつれの世にか異端のなかるへきや。たゝ君子昧まさゝるの心以てこれを安撫する術こそあらまほしけれ。まいて兇邪姦慝の絶へさる。聖賢のの人上に在してふかく是を憂へ歎かせ給へとも、又時勢にて除き得へからす。疱瘡の毒の国に充たるも、異端の国にあるかことし。今人の力もていかてかは断するへきや。橋本氏の志また愍むへし。

五雑爼に韃靼の疱瘡なきは、塩酢を食ハさる故なりと見えたるを、東涯翁の説に、八丈嶋は海濤の中にありて、日毎に塩を食すれとも疱瘡はなし。またある説に、これは其地にあしたといへる艸あり。これを食するゆゑなりといへり。東涯翁いふ。筑の彦山にあしたはなし。されと疱瘡ハなしといへり。これ等皆疱瘡の人より人に伝染する病といふ事は知らさるなり。[吉益氏の医断に、疱瘡は東漢にはしまるといへるハ、晋の建武と年号の同しき故にあやまるなり。晋にはしまる事ハ肘後方に見へたれはしたかふへし。再按するに、本綱には唐の高祖永徽四年に西域より中国にうつり来ると見えたり。]かゝる無用のもの世にありて人々その害を免れさるに、今は人の役目と心得て其病の遅きを憂ふはいかにそや。異端の国にありてなくてすまさる物とおもへるにおなし。うたてし。橋本氏の憂また宜なる哉。

あしたハ鹹艸なり。大和本艸に見ゆ。一日の内に長すれはあしたとはいふなり。[一説にあしたハ都管艸なりといへるは誤なり。蘭山翁の説に見ゆ。]いま此種吾藩にも伝へ来りて賞翫す。こゝにその図をあらハす。七島日記にも図あり。たゝしその日記には花の色白しと見へたれと、吾藩にある処は黄なり。

原本 8~9

守屋嶽

守屋嶽は藤沢片倉村の北にあたりて諏訪郡に境し、頂に石の祠ありて守屋大明神となん称し来れり。春秋の祭祀おこたらす、霊験あらたかなれとも、世の人何の神たる事を知るものなし。私にこれをかむかふるに、あかれる世に今の藤沢の地は三峯川を限りて川下まても諏訪郡に属したれは、諏訪の神領たる事あきらけし。且守屋嶽は諏訪明神の祠のうしろにあたりて、その峯鉾持山に続けり。さらハ軍終りて後諏訪明神の持給へる弓矢と鉾とをもて其山に蔵め給ひ、再用ひましき事を示し、かつは鎮守となし、これをもて守矢と称し、鉾持と称したまへるにそ有へき。伝へ聞、藤原鎌足朝臣の具足を多武峯に蔵め給へるも、かゝる例に拠られしにや。[長門の国豊満宮の巽にあたりて小山あり。此山に仲哀帝の御墓所とてあり。此則御太刀を納置奉りたる所とかや。又豊浦宮より五六里はかり北にあたりて豊浦山といふ所あり。此山にも仲哀天皇の御太刀を納たりと言伝へて、霊験ありとそ。豊浦宮伝説に見へたるよし、八幡宮本紀に見えたり。]たゝし諏訪に守屋氏ありて、守屋大連の子孫と唱へ此神をもて守屋大連を祭れりと心得たるは、古伝を失ひて名に付て設る説なり。是は明神に従ひ参らせて弓矢掌る大臣の後なるへく、且片倉村およひ遠近に守屋氏の殊に多きは、此大臣に属せし人の孫なるへき事疑なし。鉾持は後に伊豆・箱根・三島を勧請し、其時に鉾を堀出し、是より名とせしと心得、守屋嶽を守屋大連を祭れりと思へるは、あたら神代の旧地を失ひぬる。惜めりといふへし。[余別に鉾持事略を作りて詳に述たれは、此に贅せす。]

原本 9~10

徳本翁

徳本翁ハ長田氏、乾室と考し、また知足斎とも号しぬ。いつれの国の人とも知らす。或は美濃といひ、或は三河といふ。医に達しよく汗吐下の方を用ひ、巴豆附子軽粉の如き劇剤といへとも、其証ある時には瞑眩を恐れすして用ひけるとなり。世の人或ハ攻劇家と名付て恐るゝ者もありけるか、沈痾痼疾の愈難き病もその手に愈るもの多けれは、その名海内に施しける。甲斐に遊ふ事年を経しかは、世に甲斐徳本と呼しとなり。一貼の薬の価かならす十八銭と定めり。ある時乞士の病ありて薬を乞しに、十八銭有やと問ふ。なしと答けれハ、汝我薬を飲事あたハす。命なり、死ね死ねといひしもおかし。また或時、髙貴の御方病ありて召れしに、御薬調献し奉り、典薬の人々治する事あたハさりし御病、日あらすして平愈し給ふ。厚く賞を賜るへしとありしかとも、例の十八銭のつもり受得て去りぬ。[一説にいふ。高梨郡に徳本屋敷といふあり。これは上より恩賞の事強で仰有けれハ、さらは友人の家敷なきものあり。此ものに家宅賜ハるへしと望しより、賜ハる処なりといふ。実にや。]後に信のに来りて、寛永庚午の二月十四日諏訪東堀にて終れり。墳墓あり。碑面題して乾室徳本庵主と見ゆ。その持てる釜とて今も東堀の御子柴氏にひめ置ぬ。遠き国まても聞伝へて、医に志ある人は尋来りて請得て観るもの絶すとなん。徳本の著せる梅花無尽蔵といふものあり。先子淡斎深くこれを愛し、仲景の規矩にかなへり、宋の張子和に比すへしといへり。療術の奇なるのミならす、その行ひ様も世の人にこよなう替りて、種々めつらかなる事とも今も口碑に存する事すくなからす。近世畸人伝及ひ医家小伝等にも見ゆ。

原本 11

仙人床

木曽上松宿寐覚の里は、土俗伝へて浦嶋太郎か住ける地なりといひ、また三帰翁となんいへる隠者の住ける処なりともいふ。浦嶌か事ハ既に俗説弁等に見えたれは此に論せす。三帰翁は、私に思ふに、三喜翁にあらすや。雍州府志に寛正年中武蔵国河越有道導諱三喜者、自号範翁又称支山人、及中年入大明留居十二年、学東垣丹渓之術、遂携医家之方書帰本朝、救療蒼生云云。此人の乱世を厭ひてこの深山の中にかくれ終ハられしも知るへからす。今みかへり翁と唱ふるは、三喜を三帰となし、遂に訓して見帰りとなせしならん歟。湯舟沢に吉田兼好か宅趾あり。[兼好が木曽に住せし事は吉野拾遺に見ゆ。]兼好を誤りてゑんかう屋鋪となし、遂に転して猿屋鋪なと唱ふるかことし。[此事は松平君山か木曽志略に詳なり。]再按するに、三喜翁を土人推して神仙となし、これを仮称して浦嶌なと呼たりしを、遂に此両人住せしとあやまり伝へしにあらすや。[浦嶋ハ雄略帝の時の人なり。日本紀、続日本紀、扶桑略記、膾余雜録等に見ゆ。今丹後の国綱野の社は浦嶋を祭れる処なりと、怪談故事に見ゆ。さらは木曽にあるへきにあらす。]

原本 12

鸂鷘

むかしいつれの比にや、貝沼の里に一人の武夫ありて、ある日鸂鷘一つかひ居たるを見、弓もてその雄鳥を射取けり。程経て後にまた雌鳥を捕けるに、あなあハれや、はしめに取ける雄鳥の首と見へて、翼の中にいたきてあり。鸂鷘は必かくあるものなりと、貝原翁の説に見ゆ。彼武夫是を見て大に感悟し、弓矢捨てゝ僧となれり。後に一寺を建立す。今の鴛鴦山東光寺是なりといふ。[おしとりは漢名鸂鷘なるを、本邦にては往古より鴛鴦の字をもちひ来れるなり。]雌鳥の読る歌とて、日暮れはいさとさそひし貝沼の真菰かくれのをしのひとり寐、といひ伝ふるハ、著聞集の、みちのくの国あかぬまにておしとりの読る哥に、日暮れはさそひしものをあかぬまの真菰かくれのひとり寐そうき、といふを剽窃したるなり。歌の様も殊に拙し。沙石集およひ故事因縁集等に載たるを見れは、この歌の事下野国近江国なとにも見えたり。たゝ著聞集を正説とすへし。貝沼の哥とるに足らす。

原本 12~13

大蛇

天正の比大かや村に大蛇住けるよし聞えけれは、高遠の藩士に井深九郎兵衛といへる人あり、打平へしと大刀提けて尋ゆきけるに、叢の中に眠居たり。なんなく首をうち落しけれは、あなおそろし、胴の動く響地震のことし。其首飛揚り、井深を目かけて追来る。井深は小沢の阪まて逃行しか、今はかうそと踏留り、身をひらきて切倒し、其身もそこに絶死しけるか、漸いたはり快復しけるとそ。新著聞集に見へたり。今按するに、梨木村に大蛇洞と唱ふる地あり。大かや村に近けれは、大蛇の住しハ其地にや有けん。また小平内記か天龍川にて大蛇切し事、小平物語に見ゆ。今も稀には大蛇出る事あり。近きころ枩嶌およひ小河内の里人深山に入て大蛇を見て逃

かへりし者あり。我信州は山より山の深けれハ、かゝる非常の物も住けると見えたり。いとおそろしき事ともなり。

原本 13~15

三婦人

元文の比本郷の里に、きよ、亀とて二人の女ありける。いかなる人にか歟学ひけん、哥よみ習てけり。ある時西岸寺といふ古刹の前に二人して桜を詠め、哥よみて楽み居けるに、七久保村にもさん女とて是も同しく歌読けるか、その事を伝へ聞て二人の許へ一首を贈りける。

色も香も盛りと聞し花にまた

こと葉の花のいろも添ふらん さん女

二人直に返歌遣しける

吹風に散らはをしけんさくら花

はや来て見ませ咲のさかりを 清女

もろともに見てそ嬉しき此寺の

はれのむしろにこよまとゐせん 亀女

それよりさん女、酒肴なとものして尋ゆき、終日三人して興しけるとなり。後にまた源氏の題にて三人歌よみ、源氏三枕となん名つけて今の世迄も伝へり。むかし王徳の盛に在せし御時、文華行ハれけるに婦人の文才ありしは稀なり。

一条天皇の御時に、朕が人才を得し事ハ前朝に恥かしからすと誇らせ給ひしと聞ゆる御代にも、清少納言、赤染衛門等わつかに六七人に過さりき。まいて水篶かる信濃の山深き里は、その比まても君子の外は男子さへ物知りうたよむ事まれなりし。[春湊浪語に載する木曽義仲か男義高が歌読けるよし。また近き比飯田城主脇坂侯歌よみ給へる名こそ高けれ。もとより武門高貴の御方ハ斯もありなん。いかて農婦にその技倆ある事を望んや。]今や文華行ハるゝ目出度昇平の御代にあたりて、かゝる辺鄙の賤しき婦人まてかゝる様ありしもいとめつらし。さん女は殊に貧しく、すこしの店をひらき往来の人に茶酒なと売て業としたりとなん。

原本 15~16

木乃伊

新野邨にいつれの比よりか、死人の朽敗せさるあり。その姓名履歴は知れる人なし。たゝ行者となん呼来れり。是ハ越後弘智法印の類にやあらん。[弘智か事東奥紀行及北越奇談等に詳に見えたり。]また近き比に、諏訪の芹沢にて死人を堀出せしか、棺なとは形もなく皆朽果ぬるに、尸はかりハ乾枯してそのまゝあり。是も年古りたる事にて、姓名なとは知る人もなし。[その尸は今もその里の泉渋院にひめ置ぬ。]南留別志に見えたる、奥の秀衡か五百年の後まても朽敗せさりしは、棺槨の制も備りけれはかくもありなん。こは棺も尽て土の膚にちかつきたるに、かくありしハいとあやしき事にこそ。私にかむかふるに、蕃薬の木乃伊となんいふ物即これならん。死たる人数万人のうちにはおのつからかゝるものもあるものなるへし。また必寒国にのみ限れる事にや。職方外紀に欧邏巴の一地に、死者を山に移せはその尸千載朽すと見へ、采覧異言に、臥児狼徳の地は殊に寒園にて人物の生せさるに、和蘭人ある年その国開かんと、衣粮屋具を備へていたりしに、一人も帰る事なし。翌年尋ゆきて見るに、坐する者は坐し、臥する人は臥しなから死して、朝哺の如くにてありしとなん。これ等の類皆その木乃伊といふものにて、信濃及ひ越後のことき寒国にはたま/\かうやうの者出来るも、たとへは蚕の中に殭蚕の生する類に有へき。万国新話にその説見ゆ。行力にてかくありしなといふハ拙し。紅毛雑話及ひ采覧異言に、木乃伊ハ熱暍にて人の焦枯したるなといひしは、蘭人の妄語を従られしなるへし。[唐僧義好といふものも、死して後百年を経て化せさりしと、和漢大平広記に見ゆ。]

  • [欄外注記]
  • 西京雜記、魏王子且渠家無棺槨、但有石牀広六尺長一丈石屏風牀下悉是雲母牀上両屍一男一女皆二十許俱東首裸卧顔色如生人又幽王冢百余屍縱橫沈藉皆不朽唯一男子余皆女子。 皇朝類苑引倦遊雜録曰華嶽張起谷岩石下有僵尸歯髮皆完。 関氏か著せる発墳志に、上州茂呂村の石室の中に尸ありて俯伏せることし云云。 東奥紀行に越後津川玉泉寺淳海上人尸も百余年腐敗せすと見ゆ。

原本 16~18

春山

伊那の郡福岡といふ里に、彦四郎といへる農あり。家富栄えていと目出度暮しける。或時都方より来りけるとて、春山といへる若き僧一宿せしに、いたはる事ありてかりそめに四五日休らひしに、定まれる時や至りけん、今は早枕もあからす、湯水さへも咽をうるほさぬ程になりし時、彦四郎に逢申度こそ待れ。願くハ沐浴して服改め対面せはやと望けれいは、ひんなふハ覚えけれと、その様気髙う見へしまゝ、頓て沐浴し服改て出向て対面しける。彼僧申けるは、主人の此頃馳走ハ誠にいつの世にかは忘れるへきや。我は武者小路中納言殿の弟にて、歌行脚せはやと一々諸国を廻りしに、此処に至りかりそめの風心地にありしに、定業にやありけん、今ははやなからふへうも覚えす。此上の結構には、此消息都へ届け給ハれと申置て、その朝の露と消ぬるこそ哀なれ。実に寛政三亥の正月二十三日にそ有ける。都へ消息遣はしけるに、詞はなくて一首の歌をそ書たりける。しらぬ野の露とそ消る月花を雲井にめてし折ありしに 武者小路殿かなしひの余りに、あはれいまそのはらからの名のうさにありとも告て消るはゝ木々 その塚今福岡にあり。

原本 18~19

小松氏墓

入の谷宇良邨に小松氏の墓あり。土人伝へて惟盛の墓とす。平家物語に、惟盛は潜行して熊野浦に到り、海に没入すと見えたり。国史略に曰、惟盛海に没入するにあらす、晦跡して伊勢国安野郡に潜匿し、承元四年三月念八日、五十三にて病没す。邑中に其子孫存する者二十一家、隷属の後二百五十余戸ありとなん。さらハ惟盛海に没入するにあらす。されと此村に来れるにもあらす、今其墓の存するもあやし。[入谷のうちに小松氏多くありてその子孫といふ。]建福寺に僧文覚か穿てる池とてあり。新著聞集に、蓮華寺に文覚の墓ありと見ゆ。[今はなし。]文覚は実朝公の時に、惟盛の子六代を夾て反せしを、隠岐にそ流しぬ。高遠に其遺跡の存するも心得られす。是もと六代の命を乞請し事も見ゆれは、若くハ惟盛を供奉して此地に来れるにもあらん歟。源為朝か自殺せし事ハ保元物語に見ゆ。これも琉球へ渡りて、その子孫の人其地を有てり。[南嶋志琉球事略三国通覧等に見ゆ。]

その他朝比奈義秀か木曽に隠れ[木曽志略に見ゆ。]源義経か韃靼へ遁れしの類[鎌倉実記及ひ蝦夷志に見ゆ。]ならんと先覚ハいひしか、私に考るに、山室邨遠照寺に持伝へる古証文に、康歴二年六月小松四郎源盛義と見へたり。その比此地に小松氏ありて、宇良邨の墓もそれ等の人なるへし。氏の同しきゆゑに、惟盛と誤りたるにあらすや。猶尋ぬへし。上古の事存するかことく、亡するか如く、実に大史氏の嘆を起すに堪たりき。

 

信濃奇談巻之下終

原本 19~20

附録

王墓

松嶋にあり。土人伝へて 敏達天皇の皇子頼勝親王を葬奉る処なりといふ。日本紀及ひ皇胤紹運録等をふるに、頼勝親王といへるは見えす。近き比此塚のほとりを堀かへしけるに、すゑものにて作りたる貴人のかたあまた出たり。こハ殉死のかわりにつくりてうつめし埴輪なるへし。此あたり木下の里に天皇崎后洞なと唱へ乗来りし地名もあれは、其所に住せし御方を葬り申せしにあらすや。何れにも高貴の御方の墳墓たるへきにそ。又この塚の東にさゝやかなる塚ありて石をおほへり。龍宮塚といふ。其石の下にむかしは穴ありて、此あたりの里人、まらうとなとありて得まほしき調度膳椀やうの品々を、紙に書つけて穴に入おけは、其夜の内に塚のまへに出し置事、古より近きころまてしかありけるを、或時心さかなき男、彼調度を得て用ひけるに、皆古代のものなれは惜とや思ひけん。おのか家にひめ置て返ささりけるとそ。偖その後は里人例のことくねきけれとも、一ッもいてこすとなん。此事ハ諸州に多くありて、かくれ里なといひならはせり。五畿内志回国筆土産等に見ゆ。[本郡勝間村にある事ハ木下蔭に見へ、木曽にある事は木曽志略に見ゆ。]いとあやしき事にこそ。五雑爼に済瀆廟の神およひ趙州廉頗の墓の事見えて、是鬼と人と市するなといふ。私にいふ。これは皇后の御塚なるへし。皇后転して龍宮となりしならん。里人あはかんとせしか、大に祟ありしとそ。[ついていふ。塚の北に深沢川あり。こハ上古に深沢駅の名の残れるなり、深沢駅ハ延喜式に諏訪郡に属したれは、地名考に今の諏訪郡三沢を以て是に充つ。誤なり 此ほとりは和名抄の佐浦郷にて、諏訪郡たる事を知らさりしなり。深沢川ありて深沢駅なきハ、阿智川ありて阿智駅なきと同し。異とするに足らす。]

原本 20~21

検校墓

非持邨にあり。検校豊平か墓なるへし。里人あやまりて盲人の墓と思へるは、検校の名に拠るなり。古今著聞集に、 一条院御秘蔵の御鷹ありけり。いかにも鳥をとらさりけるを、よくとりかひまゐらせし。叡感のあまり所望申さんに、したかふへきよし仰下され、信濃国ひちの里をそ申うけける。ひちの検校豊平とハ是か事也云云。是かの検校か墓たる事疑ふへからす。

犬房丸墓 小出村にあり。工藤祐経が子なり。伊那郡に遠流せられて此に死したりとなん。 [新著聞集千曲真砂温知集地名考等に出つ。]按に、犬房丸遠流の事東鑑曽我物語等にも見えす。藩翰譜を考ふるに、祐経の男祐時童名犬房丸、日向国地頭職を賜ひ、今の飫肥城主ハ其子孫也。[勢州四家記を考ふるに、伊勢の伊東氏も其子孫なり。]此にあるへきにあらす。何を誤伝へたるにや。

原本 21

堀内玄逸墓表

堀内元鎧一名鮏字魚卿号菅斎父中邨元恒信州伊那人母北原氏家世業医元恒初試業各処元鎧生于上穗長于大出既而元恒就仕高遠専任儒職元鎧従季父玄三受業于山寺業已成出為松夲堀内玄堂義子玄堂其仲父曩出嗣堀内氏者也翌年仲秋有疾荏苒不愈今兹己丑二月十四日終没亨年二十有三葬松夲城北沢邨賢忠寺後山元鎧為人貞信愨実口絶不道人之過悪善事継母矢野氏及義父母未有疎意是以皆視之猶所生合族感賞他人亦聞其死莫不哀慟其祖淡斎翁以善俳諧歌聞元鎧亦好之元恒聞其疾病走往視之実危篤也請題一句頷而揮毫蓋其旧題得意句也舍筆即暝悲哉 已葬元恆左袒右還其墓曰 嗚呼汝之不寿命也松夲汝祖先墳墓所在汝今死首其丘其安之文政十二年二月高遠教授中邨元恒識