社寺建築の通例は南向きであるが、浄土真宗寺院に共通して、本堂は真東を向いている。これは西方に浄土があるとする西方浄土(さいほうじょうど)の仏教思想に拠るもので、真宗の御本尊である阿弥陀如来が浄土より民衆を迎える来迎(らいごう)の教えを具現化している。その為、本堂中央に安置される阿弥陀仏の背中が西方となり、参拝者は浄土を向いて参拝する様に設計されている。
真宗は民衆の宗派であるから、大勢の門徒や参拝者が一堂に会する本堂が必要となり、大規模なものとなっている。勝興寺はその中でも破格の規模を誇るもので、間口は約三十四m、奥行は約三十五mである。全国の国宝・重要文化財の中では、奈良東大寺大仏殿や
京都西本願寺に連なるもので、まさしく北陸を代表する大規模建築と云って良い。又、建立された当時は現在の様にクレーンもトラックも無い訳で、滑車と大八車程度しか無い時代の中、壮大な勝興寺の本堂を築いた建築技術は目を見張るものがあり、江戸時代の技術の結晶と言っても過言ではない。
屋根は入母屋造(いりもやづくり)と呼ぶ側面に三角部分を持つ屋根で、正面の中央には玄関口の庇である向拝(こうはい、ごはい)が張り出している。屋根の勾配は、普通の建物よりも勾配がきつい為、大きな屋根になっている。これは降雪を考慮すると共に、大きな屋根を造る事により雄大さを求めたのではないかと考えられる。棟の頂上までは約二十四mで、これは六階建のビルの高さに相当する。棟は箱状になっており、中に人が立って歩ける程の大きさである。
この屋根に、棟から軒先までロープを垂れ下げてみたところ、屋根面にぴったり合致した。この曲線を昔から、縄が弛(たる)んで出来る曲線なので「縄弛(なわだる)み曲線」と呼び習わしている。屋根の他にも城郭の石垣にも用いられる事があり、自然に出来る美しい曲線を巧みに建築にも応用している事が判る。
社寺建築の外観での一番の見せ所は、屋根である。具体的には、一つが前記した屋根の曲面の美しさで、もう一つが軒先の曲線である。軒先は中央が水平で、両隅に行くに従って反り上がる曲線となっている。この曲線が、美しさと力強さを表現する要になっている。今回の修理では、この点にも十分配慮して、屋根の曲面と軒先の曲線の修正にも力を注ぎ、建立時の壮観な姿を甦らせた。
屋根は修理前には瓦葺だったが、これは明治時代に新たに瓦を載せたもので、建立(こんりゅう)当初には鉛板葺であった事が、今回の修理工事に伴う調査で判明した。そして鉛板葺の復原が検討されたが、鉛の環境汚染が懸念されるので、色合い・光沢・質感が鉛に近い亜鉛合金板を代替品として採用した。経年変化による白色化も鉛に似ている。江戸時代の金属屋根には、銅板が用いられるのが一般的であるが、鉛板葺は全国的にも加賀藩にしか見られない珍しいものである。これは加賀藩が長棟(ながと)鉱山(現大山町)を抱えていた為、銅よりも入手し易かったからと推察出来るが、白い屋根に対する美的感覚に由るとの想像も可能かも知れない。
次に、眼を屋根より下げると、比較的細い柱が林立している印象を受けるであろう。これは、軒支柱(のきしちゅう)が建っているからで、一般の建物にこの柱を見る事は出来ない。社寺建築は、風雨を凌ぐと共に意匠面も考慮して、軒先を深く出しているが、その反面として軒先の垂下が弱点となっている。特に勝興寺の本堂では、大規模な故に軒先は大変重く、一層垂下が生じ易いので、これを支える軒支柱が必要な訳である。基本設計をした京都西本願寺の水口棟梁が、本願寺阿弥陀堂(本堂)に倣って軒支柱を設計したと考えられる。軒先の荷重だけを支える為なので、比較的細い柱が用いられているが、その内側には主体構造となる太い柱が数多く使用され、剛健な構造を築いている。