一 勝興寺について

富山県立大学教授 原口志津子

 富山県高岡市伏木古国府の勝興寺は、浄土真宗本願寺派の古刹である。寛政七年二七九五二洛慶の巨大な本堂のほか十一棟が、昭和六十三年二九八八)と平成七年二九九五)に重要文化財に指定されている。
 開基は、文明三年(一四七一)、現在の南砺市(旧・福光町)に営まれた土山御坊に出来する。
 土山御坊は、本願寺五世・綽如(一三五〇~一三九三)の三男・周覚(玄真 越前荒川興行寺住持 一三九一丁一四五五)の娘、勝如尼(一四二八~一四九五)が開いた道場として知られている。
 勝如は、本願寺六世・巧如(一三七六~一四四〇)二男の宣祐(如乗 一四一二~一四六〇)と結婚し、夫亡き後は、現在の金沢市二俣町の本泉寺を住持、北陸の真宗教線伸張に大きな役割を果たした。「大谷一流系図」に、「北陸道当流法再興人也」と評される人物である。本願寺八世・蓮如(兼壽 一四一五~一四九九)の叔母にあたる。蓮如の二男・蓮乗(兼鎮 一四四六~一五〇四)を娘・如秀の夫に迎え、二俣・本泉寺と本願寺五世・綽如の開いた南砺市谷・東砺波郡井波町)の瑞泉寺、そして土山坊の住職を兼帯させたという。
 ただ、現在の勝興寺では、勝如尼ではなく、蓮如を開基として尊崇とする。近世以降、本末制度の中で整備されていった宗教組織の中で、また、寺史編纂や歴史学的叙述の中で、女性の活動や存在意義は必ずしも重視されてこなかったからである。また、実玄(一四八六~一五四五)が勝興寺住職であった時代に、金沢市二俣・本泉寺など、加賀の真宗組織から分離してゆくことから、本泉寺を中心に活躍した勝如を開山として位置づけることが困難になっていったこともあるのだろう。なお、この実玄の代に、信念が開き五代を経て廃絶した順徳院御願寺・佐渡国殊勝誓願興行寺を継承し、勝興寺を寺号とした。
 勝興寺の寺地は、土山坊、高木場(高窪)道場(現・南砺市)、安養坊(現・小矢部市)と変遷し、天正十二年二五八四)十一月、佐々成正、神保氏張によって、現在地が寄進されて今に至る。ちなみに、現在地の古国府は、奈良時代に大伴家持の赴任した国衙跡と推定される高台である。地元の人たちは、親しみと畏敬をこめて、勝興寺を「ふるこはん」と呼ぶ。
 勝興寺は、連枝寺院として本願寺との関係が深いのは言うまでもないが、朝倉氏などの戦国大名、加賀藩主前田家、鷹司家などの公家とも姻戚関係を結んでいる。また江戸時代以降は、越中の触頭寺院でもあり、その長い歴史と格式にふさわしく、貴重な霊宝、宝物類が数多く所蔵されている。