(一)戦国時代の勝興寺

 雲龍山勝興寺は、富山県高岡市伏木古国府十七番一号に所在する浄土真宗本願寺派の寺院である。今日でも越中国随一の大坊として〝古国府(ふるこ)はん〟と呼ばれている。開基を順徳天皇の皇子信念を開基とするが、事実上、本願寺八代蓮如の二男本泉寺蓮乗が、十五世紀末に越中国砺波郡土山(現南砺市)に建立した草坊に始まり、弟の光教寺蓮誓(蓮如四男)が招かれて住した。この際、蓮乗は河上分を除いた越中国坊主分を与力としたという(『反古裏』)。やがて蓮誓の次男実玄が、同郡安養寺村(現小矢部市)に居住し、勝興寺と号した(『日野一流系図』)。永正十六年(一五一九)十一月十日、本願寺九代実如が実玄に授与した同寺蔵の親鸞絵伝の裏書に「越中国利〔砺〕波郡/蟹谷庄内安養寺村/勝興寺常住物也」とあり、同年までに土山から安養寺に転じていたようだ。このような成立の背景をもつため、十六世紀初めには加賀国本泉寺の諸坊の一つと認識されていた(『山科御坊事并其時代事』当流諸国坊々事)。
 勝興寺が自立する要因に、享禄四年(一五三一)加賀でおこった錯乱(享禄の錯乱)で敗北した本泉寺の退転がある。さらに実玄の内室が光教寺蓮淳(蓮如六男)の長女妙勝で、本願寺十代証如の母鎮永の姉にあたることが大きい。証如は父円如が早世したため、大永五年(一五二五)祖父実如没後に十歳で継職した。実玄は証如の親族として、その地位を固めたものとみてよかろう。これを示す出来事として、天文七年(一五三八)四月の加賀国下田長門別心事件では、同国一向一揆に加えて、越中勝興寺・瑞泉寺にも証如から指示が与えられている。同十四年(一五四五)三月に実玄、弘治二年(一五五六)五月に息玄宗が相次いで没し、その弟顕栄(慶栄)が継承した。この頃、同寺は所在地から安養寺と呼ばれていた。永禄二年(一五五九)本願寺十一代顕如が門跡に列すると、同三年に勝興寺は院家を勅許され、本願寺一家の地位を確立した。本願寺は越中四郡惣坊主に対し、同寺に無断での上洛を禁じ、同寺への与力を確認している。
 同八年(一五六五)顕如が甲斐の武田信玄と盟約を結ぶなど、諸大名間の抗争に関与していくと、勝興寺は瑞泉寺とともに越中教団を率い、加賀の一向一揆と提携して、上杉謙信・織田信長勢に対抗していくことになる。同十一年(一五六八)三月、顕栄は謙信の越中出陣を金沢御堂に報じた(坪坂文書)ほか、増山衆(神保氏)の動きを注視している(長光寺文書)。謙信と対立する信玄から今後の戦略に関する書状も届くほどである。元亀三年(一五七二)謙信の侵攻には、信玄が息勝頼と連署で越中に救援できない旨を報じている。越中では謙信との和睦が期待されていたようで、同四年これを知った近江の浅井長政は、信玄に無断で行うことを戒めている。
 天正四年(一五七六)本願寺と和睦した謙信と、勝興寺は交誼を結んだ。謙信の能登出陣を祝し、返状を得ている。これには上杉家が同寺と瑞泉寺を家中として認識していたためである(上杉家文書)。同八年(一五八〇)顕如が信長との間で戦った石山合戦で勅命講和を受諾し退去すると、新門教如は籠城を続けた。両者とも同寺と越中の坊主・門徒に充ててこのことを報じている。特に坊主・門徒中への消息を所蔵することは、教団の中心の地位にあったことを物語るものである。