治脩は延享二年(一七四五)正月四日に、加賀藩六代藩主吉徳の十男として誕生した。父吉徳は治脩の誕生した半年後の延享二年六月十二日五十六才で亡くなっている。母は側室の夏といい、伊勢の津藩士園田氏の娘である。翌三年(一七四六)四月には誕生間もない治脩は勝興寺住職となる事に定まり(〇〇〇-一二四)、幼名時次郎を尊丸と改名した。宝暦六年(一七五六)閏十二月には勝興寺に入り、同十一年(一七六一)二月西本願寺において得度し闡真と称した。治脩はこうして、勝興寺十八世の住持となり、法暢を名乗った。
(一)治脩の勝興寺入