十代藩主重教の後継には弟で、藩士大音主馬家に入っていた利実が、宝暦五年(一七五五)段階に定まっていたが、明和三年(一七六六)二十四才で没してしまう。
これにより、明和四年(一七六七)閏九月、参勤で江戸に着いた治脩の兄である重教は、継嗣の無い事と、自身の病から公務、国政不行き届きを憂い、養子縁組の必要を家臣に伝えた。国元では早速幕府にこの旨を届けるべく老臣の江戸行きが議されたが、重教はこれを粗忽・出過ぎとたしなめ、来々年迄の内にとくと考えるとして差し止めた。この時点から後継問題が現実的な課題として動きを見せてくることになる。
これは、同年八月に重教夫人が三度目の流産しており、継嗣誕生の可能性の無いことを感じながらも、一縷の望みを持っていたのであろう。現実に安永七年(一七七八)側室に継嗣斉敬が誕生している。斉敬は重教が治脩を養子とした後の誕生であったため、治脩の養子として家督を継ぐこととされたが、十八で早世し藩主になることはなかった。
重教が養子による家名の存続を考え、治脩が後継に定まるまでの経緯を見ていくと、同年十一月の老臣意見では他家からの相続では「加越能庶民一統は心服しないであろう」が、松平出雲守(富山藩六代利與)であれば「四民残らず心腹」するであろうとし、富山の前田利與の名が挙げられている。他家からの養子には徳川家という想定もあったようである。同月には藩士達からも「御家御正統の御筋目」を基本とすべき事が請願されている。つまるところは「御元祖様以来嫡々御相続之血脈」が第一の前提とされた。
このような中、同年十二月に富永五郎左衛門より村井長穹の進言に、継嗣候補として「御末子様」(治脩)の存在が浮上してくる。これを承けたものかは詳らかではないが、明和五年(一七六八)三月重教は治脩を継嗣とする意を家臣に伝え、ここに治脩の立場が明確なものとなる。
継嗣候補には、先に富山の利與(出雲守)の名があったように、大聖寺の前田利道(備後守)も対象者であったが、ここにおいて方向性は定まった。