藩として継嗣問題は前田家と藩の浮沈に懸かるものであり、搦め手から本願寺門主の諒解を取り付けるべく、五代綱紀の外孫で有栖川宮家の妃である辰君に取りなしを依頼すると共に、治脩には還俗後に重教に継子が誕生した場合には、相応の知行を用意するなどの条件提示をし、還俗の実現を図った。八月には辰君より「西本願寺においては差し支えない」旨の返答が届き宗門上の問題は解決することとなり、九月十五日治脩は「御家のため、忠孝と考え」還俗し、重教の養子となることを許諾した。
治脩はこの還俗にあたって、条件ともいえる願いを藩の年寄中に提出している。それは寺の勝手向きが困窮しており、闡真の還俗は更に寺の衰徴に繋がることになるであろうとし、継続的な経済援助(扶持・寄進)を願い、明和六年月に合力として吉久御蔵の詰米千俵を遣わすことを申し渡した(〇〇〇-一二五)。
(二三八-二一 安政三年「吉久御蔵米切手」)
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こうして明和六年二月朔日、高岡において還俗の御規式が執り行われ。尊丸から時次郎に戻り、実名を利有とした。後住には、明和七年本願寺法如の十男常丸(法薫)に定まった。(〇〇〇-一二七・一二八)。