(四)治脩の就封

 後継が定まったことにより、明和六年七月朔日に重教は、本多・横山・長らの老臣に家督を時次郎に譲る旨を伝え、翌七年四月十一日重教は隠居の請願をなし、明和八年三月に至り治脩は松平の姓を賜り、四月家督相続が許され、還俗から二年にして前田家十一代を継ぐことになり、同年六月には利有を治脩と改め、正四位下左近衛少将に任官し加賀守を称する。治脩の「治」は十代将軍徳川家治の偏諱を賜ったものである。
 これにより前田家は七代宗辰、八代重凞、九代重靖、十代重教に続き、五代にわたり、六代吉徳の子(兄弟)が藩主の座に就くこととなった。
 就封間もない明和八年七月には大聖寺藩主前田利道の二女正との婚約が許可となる。正はこの時に数え八才であり、婚姻は寛政十一年のこととなる。この婚姻には先の後継問題において、大聖寺前田家の名も挙がっており、これらに対する配慮があったのであろうか。
 治脩の還俗も前田家の嗣子問題にあり、嗣子は治脩にも藩にとっても大きな課題であったが、婚姻前に兄で十代藩主重教の嫡男と二男、さらには重教の二女・三女を養子としており、系統として藩主を兄の血筋に戻す形になっていた。治脩の実子には利命がいたが、六才で早世しており嗣子問題を引き起こすことにはならなかった。重教の嫡男斉敬は十八才で亡くなり、二男の斉広が十二代藩主を嗣ぐことになる。治脩の治世は享和二年まで三十二年にわたった。