(五)藩主治脩と勝興寺

 治脩と勝興寺の関わりは、先の合力米が以降の勝興寺の経営の助力となるが、藩主として個人的な関わりは薄くなったと考えられよう。藩主と領内寺院の関係は、明和九年七月の参勤の節に治脩は高岡に泊るが、「如例勝興寺機嫌伺ニ旅館ヘ伺候、目見ナリ」(太梁公日記)と、「例の如く」と歴代藩主に対するものと同様に一般的な対応となっている。
 治脩は文化七年一月七日に没し、金沢の宝円寺において葬儀が執り行われた。この時、勝興寺は導師の次に焼香を行い(加越能文庫「太梁院様御墓誌并銘附考案」)、二月七日の中陰では諷経の列に加わっている。これは藩主葬儀に際して異例のことであり、偏に治脩が勝興寺住職を勤めた由緒によるものであった。
※文中に出典を記していない記述の典拠は『加賀藩史料』を出典としている。

(宇佐美 孝)