江戸幕府は、寛永十二年(一六三五)に寺社奉行を設置し、全国の寺社や山伏などの支配にあたらせた。寺社奉行の設置とほぼ同時に、各宗派ごとに江戸やその近郊の有力寺院を触頭と定め、触頭は幕府からの触を各宗派の本寺や末寺に廻達し、各宗派を代表して幕府との取次役としての役務なども行った。これら触頭寺院は、教団内部での地位も高く、若干の変動はあったもののほぼ固定されていた。
幕府の宗教統制策は各藩へも大きな影響を及ぼしたようで、加賀藩では慶安元年(一六四八)に寺社奉行が設置された。「諸頭系譜」(金沢市立玉川図書館)によると、葛巻蔵人重俊(五〇五〇石)、岡島市郎兵衛元為(五〇〇〇石)、茨木右衛門長好(二五五〇石)の三名が任命されている。定数は寛文・延宝期以後は二名に縮小されたが、元禄期より再び三名に戻されている。寺社奉行の職務は、大きく分けて寺社方と支配方に分かれる。寺社方は領内寺院や神社の支配及び僧侶や神主の取締り、藩主の菩提寺における法事・祭礼・祈祷の取次ぎなどが主な職務となっており、一方支配方は、与力の身分・領知・相続などを管轄した。
寺社宗教関係の職制としては、寺社奉行のほかに、キリシタン禁令による宗門改めなどを主な業務とした宗門奉行があった。宗門奉行は寛永十九年(一六四二)に設置され、今枝弥平次・前田志摩・古屋所左衛門・長瀬五郎右衛門・山本久左衛門・津田玄蕃の六名が就任している(「諸頭系譜」)。
幕府と同様、藩の寺社政策が末端まで下達されるために、領内の各宗派毎に触頭が定められた。触頭は、幕府や藩・本山からの布達を支配下寺院(触下)に伝達するとともに、触下寺院から藩に提出する願書などを取り次いだ。さらに、触下寺院の不法を取り締まる権限や本山に対する寺号の取得、木仏・絵像・法物の下付、僧階位付与、相続など末寺の願書に加判し申請する権限も与えられていた。