前田土佐守家は、加賀藩祖前田利家とその正室まつとの間の次男前田利政を家祖とする家で、利政の子である二代当主直之は、まつの血筋を引く唯一の男孫ということで三代藩主利常の時に加賀藩士として一家を立てた。五代藩主綱紀の時に年寄衆八家の一つという家格が確立、以後、幕末まで十人の当主を数え、いずれの当主も年寄衆八家として一万一〇〇〇石の禄高をもって常に藩政の中枢に位置していた。「土佐守家」とよばれるようになったのは、十人の当主のうち六人(四代直堅・五代直躬・六代直方・七代直時・八代直良・十代直信)が従五位下を授かり、そのうち四人(五代直躬・六代直方・七代直時・十代直信)が土佐守を名乗ったからである。歴代当主の中でも五代直躬は、出頭人大槻朝元の排除を行った、いわゆる「加賀騒動」で有名である一方、冷泉家への入門をはじめ、風雅な一面を持ち合わせたことでもよく知られている。
勝興寺に入寺した前田土佐守家の子息は、同家七代当主直時の弟直棣である。直棣は初名を豊三郎、通称は主鈴、内記といい、寛政十二年(一八〇〇)に直養(=六代当主直方の嫡子、家督相続前に亡くなる)三男として誕生、文化八年(一八一一)藩主に初御目見、同十二年、十五歳で元服した。同十四年、兄直時の叙爵御礼のための江戸出府に随行、そして、天保七年、三十六歳の時に勝興寺に入寺、翌八年には持住となり、広済を名乗った。直棣は、元服以後、他家へ養子に入った、あるいは分家した形跡がないこと、さらに三十六歳という入寺時の年齢から、前田土佐守家に残って父直方や兄直時の扶養を受ける、いわゆる「部屋住」だったと推定される。
一方、直棣を受け入れた頃の勝興寺では、天保二年(一八三一)に十九世住職法薫(西本願寺十七代宗主法如の子)が七十一歳で没し、その長子本成が二十世住職として跡を継いだ。しかし、天保五年(一八三四)に本成が三十一歳で急逝したため、西本願寺十九代宗主本如の二男本歓が入寺した。おそらく本成には跡継ぎがおらず二十一世を嗣ぐため、急遽、本歓が入寺したと思われる。さらに本歓は、天保九年(一八三八)に勝興寺住職を退隠し、本照寺へ去っていることから、中継ぎ的な存在であったと推測する。そして本山・公家・加賀藩主家など他に住職となるべく適当な人材がおらず、前田土佐守家ならば加賀藩主家の分家筋・年寄衆八家の一つという高い家格であることから、部屋住であった直棣を二十二世住職にということになったと思われる。
さて、今回の調査・整理により、勝興寺文書に前田土佐守家に関する史料が多分に含まれていることが明らかになったが、果たして広済に関するものは、ほとんど見られない。宝性院和歌懐紙(二四一-一七)が唯一、直棣(広済)に関連する史料で、直棣(広済)入寺の経緯や入寺までの手続き・儀式等を示す史料や、前田土佐守家と勝興寺・広済との交流を示す史料は皆無である。かわって前田土佐守家関係史料の大部分を占めるのは、同家五代直躬の十四男前田直昌に関わる史料である。これらの史料より、直昌が堂上歌人として有名な日野資枝に入門し、和歌指導を受けていることがわかる。
前田直昌は、明和元年(一七六四)直躬の十四男として誕生、初名を豺十郎といい、通称は雅楽助(後に頼母)といった。安永七年(一七七八)藩主に初御目見、同九年(一七八〇)十六歳で元服、文政五年(一八二二)五十九歳で没している。元服後から亡くなるまで、前出の直棣(広済)と同様、他家へ養子に行った、あるいは新知をもらって分家したという記録はないことから、兄である六代直方の扶養を受ける部屋住だったと推定する。
前田土佐守家では、直昌の父五代直躬が宝暦十三年(一七一三)正月に京都の公家六角知通を通じて冷泉為村に入門、為村およびその子為泰から書簡によって和歌指導を受け、歌道修業をしていた。「広塚手向歌前田直躬勧進奉納に付御伝授写」(二四二-三)、「冷泉家御進物抜書」(二四二-三〇)、「冷泉家御文通御問答抜書」(二四二-三一)などは、書簡による直躬の和歌指導の一部を直昌が抜粋・書写したもので、地方門人に対する冷泉家の和歌指導の様子がわかる貴重な史料である。とりわけ「冷泉家御進物抜書」は、冷泉家入門および和歌指導に対して支払われる謝礼や盆・暮の付け届けなどの金品が具体的に明らかになる珍しい史料である。
父直躬は冷泉家に入門したが、子直昌は冷泉家ではなく日野家(日野資枝)に入門した。日野資枝は日野家三十六代当主で、和歌をもって朝廷に仕え、冷泉為村亡き後、堂上歌壇で重きをなし、多くの門弟を持ち、和歌指導を行った。冷泉為村の子為泰は、全国から入門者を集めた為村と比べると、門弟の讃仰と信頼をえられなかったようで、為泰の時代になると、冷泉家よりも日野家(日野資枝)に入門して和歌修業を行う者が増加し、長く冷泉家に師事していた者の中にも日野家に変更する者が少なからずいた。直昌も、このような歌壇の流れに従ったものと考える。
直昌の日野資枝への入門は寛政四年(一七九二)八月十六日で、同日付の日野資枝門弟許状(二四二-七)が残る。年紀のわかる限りでは、寛政四年~十二年(一八〇〇)の間、日野資枝の和歌指導を受けており、出題伝授、万葉書伝授、書法伝授などの伝授が行われている。これら伝授および和歌の添削、進物献上など日野資枝との書簡でのやりとりは主に日野家家司井家主膳・田中典膳を通じて行われている(二四四-一三-三五など)。なお、前田土佐守家(分類記号二四四)の他、公家(分類記号二四二)、文芸一般(分類記号二四五)の中で、「菅原直昌」、「前田雅楽助」、「日野資枝」の語を含む史料はいずれも前田直昌の和歌関係史料である。また文芸一般(分類記号二四五)の和歌・詠歌にも直昌の和歌が含まれていると推測する。
直昌の和歌関係史料が勝興寺に入った経緯は未詳であるが、前田土佐守家との繋がりから考えると、おそらく広済の時代に勝興寺に入ったものと思われる。そして、このようにまとまって伝来したのは、広済(直棣)も部屋住時代、和歌に興味を持ち、和歌を学んでいた可能性が高く、入寺の際に、直昌から引き継いだ和歌関係史料を勝興寺へ持参、それが同寺に残ったのではないかと推測する。
なお、直昌のすぐ上の兄で直躬の十三男である直起(玄蕃)も同じく部屋住であったらしく、前田土佐守家資料(金沢市前田土佐守家資料館所蔵)には、しばしば二人一緒に登場、とりわけ甥にあたる直養の記す茶会記に度々登場しており、甥の直養や兄直賢(直躬九男、直養は直賢から茶の湯の指導を受けていた)と茶の湯を嗜み、度々一緒に稽古の茶会を開いていることがわかる。
前田直昌の和歌史料を中心とする勝興寺前田土佐守家関係文書は、地方武士の和歌受容について明らかになるのみならず、前田土佐守家資料などとあわせ検討すると、和歌や茶の湯などを嗜みながら多くの時間を過ごす、加賀藩上級武士の「部屋住」の暮らしぶりの一端がみえる貴重な史料といえる。
(竹松 幸香)