幕末期の勝興寺の住職は二十三代広輝(沢暎)である。彼には他寺へ養子に行った二人の弟がいた。一人は鳳至・羽咋・鹿島郡の浄土真宗西方寺院触頭を務めた能登国鹿島郡所口村光徳寺の住職広揚(沢称)、もう一人は越前国足羽郡市波村本向寺の住職広証(沢応)である。両寺はいずれも中世以来の由緒を持つ、浄土真宗本願寺派の有力寺院である。
勝興寺文書には、この弟二人から兄に宛てて送られた書状が、約二百二十通残されている(分類記号二三二・二三三参照)。年代は、幕末から明治維新前後の文久・元治・慶応年間(一八六一~六八)にわたる。内容は、法会、地域・配下の寺院との交流や諸問題、本山とのやり取りなど寺務に関する出来事のほか、時候の挨拶や進物への礼、買物、遊行、文芸などの私的な事項まで、当時の地方寺院の具体的な在り様が分かるものとなっている。
中でも注目されるのは、これらの書状に、広揚・広証の二人が見聞した当時の政治・社会情勢が記録されていることである。こうした情報は、彼ら自身の見聞や、地域・配下寺院からの伝聞、本山の役僧の来訪や書状等によって入手された。二人の弟は、これらの情報を書状に記し、越中高岡に住む兄に伝達し、逆に兄の方からの情報も求めた。
書状による情報の収集・伝達については、同じ高岡町の医師の兄弟(『幕末維新風雲通信-蘭医坪井信良家兄宛書翰集-』東京大学出版会一九七八)のように、既に多くの事例が知られているが、寺院や僧侶の例は少ない。今回、まとまった数の書状が発見・整理されたことで、幕末維新期の地方寺院をとりまいていた情報世界の一端を窺うことが可能になった。以下、書状の内容を検証し、幕末期の勝興寺がどのような政治・社会情勢を知り得ていたのか、その特徴を見ていきたい。