(二)本山の動向

 京都に関する情報が多く伝達された理由は、同地における本山の動向が各地方寺院の運営に影響を与えるためである。とりわけ、幕末期に尊王攘夷派寄りとして幕府側に警戒されていた西本願寺は、書状にも見られるように、用人の暗殺や家老等の処罰、兵火による一部堂宇焼失、一橋慶喜の軍勢による長州浪士の境内捜索、諸大名による宿所借り上げ、北集会所の壬生浪士(新選組)屯所化等、政局の推移の直接的な影響を受けた。それは、地方寺院にも次のような問題となって現れる。
 まず、本山と地方寺院との交渉事の遅滞である。文久三年に上京した広揚が八月二十九日に差し出した書状には、今回のクーデターにより下間少進など西本願寺の主な家老・用人が処分され、「御本殿(西本願寺)も右一条等ニ付御用繁至極之御様子ニ而、諸願共早々御聞済ニ相成不申様子ニ而困入申候」(二三三-一七二)と記されている。政変により本山の事務が混乱し、地方寺院からの様々な陳情の処理が滞っている様子が見てとれる。
 次に、本山に対する経済的な負担増加である。元治元年(一八六四)の禁門の変では、兵火によりいくつかの西本願寺の建物が焼失した。この損害に対する見舞金が地方寺院の負担となった。十一月十五日付の広証の書状には、「京都大変ニ付、其御殿(勝興寺)ニも御見舞金等莫大御物入之義御察申上候、当国(越前国)寺々困入申候、大概巡僧大地之面々ニ而ハ三十金計之御見舞ニ御座候、各々迷惑至極ニ御座候、」(二三三-八)とあり、見舞金の捻出に苦労する地方寺院の実情を窺うことができる。
 また、慶応四年(明治元年、一八六八)正月二十二日付の広証書状には、「旧冬より京都大変至極、御本殿(西本願寺)始唯々入恐計ニ御座候、近来より之大変も毎度有之候得共、当度之大変ハ至極難関之様子ニ御座候、(中略)当国ハ惣坊主早々一統上京致候様、御達書を以被仰付ニ相成候得共、領主より一僧も上京御指止ニ相成、且て通行六ヶ敷、一人も御機嫌窺ニ上京六ヶ敷、色々申立領主江願上候(中略)猶亦当国仲間中より御見舞金、内々御坊より御願ニ相成候得共、何分当時節柄ニ候故、格別之御見舞金も上納六ヶ敷、各困り居申候、併拙寺(本向寺)方ハ格別之内願も有之候故、仲間中とハ別様、御見舞金も上納仕度存居候得共、迚も時節悪敷、父子困り居申候、乍些少五拾金計ハ上納仕候積りニ御座候、東渕院代僧上京為致度候得共、領主より御指止ニ相成候故、一向致方無御座候、夫々困り入申候、」(二三三-一〇〇)と、大政奉還から王政復古、鳥羽伏見の戦いに至る一連の政変を、今まで以上に大変な事態であると認識し、そのため本山への御機嫌伺いや見舞金を上納しようとしたが、領主の制止により実行できず困惑している現状が記されている。
 このように、地方寺院が本山への献金や御機嫌伺いを行った理由は、こうした献金・献身が寺格の昇進と連動していたためであったことを、既に先学が明らかにしている(遠山佳治「大浜騒動の社会的背景-暮戸会所を中心にした東本願寺派寺院の動向について-」『幕末維新論集11幕末維新の文化』吉川弘文館二〇〇一他)。引用史料中の傍線部からも、本向寺が「格別之内願(内容不明、昇進か)」があるため、他の寺院とは別に見舞金を上納しようとしていた事実を知ることができる。