文書名
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浅井長政書状
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文書名(カナ)
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あざいながまさしょじょう
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文書名(ローマ字)
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別名
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別名(カナ)
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別名(ローマ字)
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文書名(欧文)
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文書名に関する注記
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差出・作成者
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差出・作成者(カナ)
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差出・作成者(ローマ字)
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宛所
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勝興寺同宿中
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宛所(カナ)
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宛所(ローマ字)
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書写者
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書写者(カナ)
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書写者(ローマ字)
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作成年
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(天正元年)二月二六日
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作成年終
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数量
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1点
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形状
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掛幅
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寸法
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寸法(縦)
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11.2cm
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寸法(横)
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47.6cm
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材質
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形態に関する注記
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掛幅装
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保存状況
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縮尺
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その他の注記
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言語
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日本語
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ISBN
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ISSN
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主題
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主題(カナ)
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主題(ローマ字)
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関連する地域・場所
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関連する地域・場所(カナ)
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関連する地域・場所(ローマ字)
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関連する人物・団体
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関連する人物・団体(カナ)
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関連する人物・団体(ローマ字)
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内容年
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内容年終
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内容
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内容(カナ)
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内容(ローマ字)
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解題・説明
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浅井長政(1545~73)は、近江の北部に拠った戦国大名。織田信長の妹・お市を娶ったことで知られるが、後に親信長の態度を改め、隣国越前の朝倉義景(1533~73)をはじめ、将軍足利義昭、本願寺第11世・顕如(1543~92)、武田信玄(1521~73)らと連携して、信長に立ち向かった。 本史料は、元亀4年(1573)2月、長政が勝興寺第9代住職・顕栄(1509~84)に届けた書状である。勝興寺など越中の本願寺系寺院は、顕如に従う立場からも、信長と結ぶ上杉謙信と対峙する立場からも、上述の反信長グループの一部を構成することになり、そのため長政と顕栄の接触が生じたのである。この書状では、まず越中の情勢に関する意見を伝え、次に反信長運動の進捗状況を報せている。 この頃越中では、前年来の謙信の攻勢が止まず、勝興寺をはじめとする反上杉方は、苦戦を強いられていた。こうした状況の中、長政が様子を尋ねる書状を送ったところ、顕栄から返信が届き、それを受けてまた書かれたのが、すなわちこの書状である。顕栄は謙信と和睦したいと言って来たらしく、長政は、信玄に無断で和睦するのは不都合である、味方の全員が納得しなければ駄目だ、などと述べて、これを思い止まらせようとしている。「信玄に無断の和睦は不都合」というのは、越中で和睦が成立した場合、手空きとなった謙信が、今度は武田領に乱入するかもしれないと考えたのであろう。後に述べるように、この時信玄は三河方面に出動中で、本国を留守にしていたのである。 書状の後半では、義昭が義景と長政に檄を飛ばしたこと、自分は近江滋賀郡を制圧したこと、信玄の勢力は遠江・三河はおろか美濃にまで及んでいることなどを報せている。その上で、諸方面ともうまく進んでいるから、越中でももう少し頑張るように、と激励している。この後、4月になると謙信は本国に帰り、越中の情勢は小康状態となる。しかし、同じ4月に信玄が陣中で病没し、8月には義景・長政が相次いで信長に滅ぼされ、反信長グループは完全に崩壊してしまうことになる。(鴨川達夫)
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解題・説明(英語)
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来歴
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来歴(英語)
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所蔵機関
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勝興寺
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原資料の所在地
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勝興寺
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資料番号
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『勝興寺宝物展』図録番号:81、『勝興寺文書目録』箱No.県-〇一三
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管理記号
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カテゴリ区分
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文書・記録
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資料種別
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文書
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資料分類(大分類)
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宝物
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資料分類(中分類)
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文書
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資料分類(小分類)
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文化財情報
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富山県指定文化財
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manifest.jsonへのURL
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参照データ
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関連ページURL
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宝物作品解説
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関連画像URL
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自治体史掲載
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出版物・関連資料
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『勝興寺宝物展 重要文化財勝興寺本堂落慶記念』(勝興寺ほか 2005)
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翻訳元の言語
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権利関係・利用条件
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原資料の利用条件
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権利関係・利用条件に関する注記
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緯度・経度・高度に関する注記
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DOI
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既刊目録名
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『雲龍山勝興寺文書目録』(勝興寺文化財保存・活用事業団 2012)
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デジタル化の経緯に関する注記
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