1-2-6 赤池炭

 近世の川船利用の時代、赤池の岩淵(いわぶち)に河港があり、川艜(かわひらた)には小舟、中舟、親舟の種類がありました。上流からの年貢米など諸物資は、小型の川艜で運ばれここで大型の川艜(長さ七間・幅一間二尺)に積み替えられて、遠賀川(おんががわ)を下っていきました。堀川へ抜ける内側と、太閤堀へ回る外側へ行くルートがありました。
 田川には宮床(みやとこ)番田(ばんだ)付近に船場があり、田川各地から岩淵に運ばれ積み替えられました。石炭も同じ扱いを受け、田川産出の石炭は赤池炭の名称で積み出されました。小倉藩では石炭を赤池会所で統制下におきました。18世紀末には若松や小倉、遠くは瀬戸内海の三田尻塩田にも運ばれたようです。
 明治時代になると、年貢米運搬はなくなり、水運による石炭運搬が主力となり、上流で使用していた小舟と言われた長さ五間・幅一間の川船で6,000斤を積み、岩淵で大型の川舟に積み替え遠賀川を下っていきました。大型の川艜は、石炭約10,000斤(約6t)を積み、筑豊各地でもこの大きさの川船が主力となります。船場の川艜までは、石炭を篭に担いで運ぶ人力運搬でしたが、板を敷いた車道の車力運搬へ変わり、その後は軌道馬鉄などの馬鉄運搬も利用されるようになりました。
 赤池炭は、このようにして使われた田川産出石炭の総称でした。明治20年代後半になると石炭運搬は次第に鉄道輸送に置き換わっていきました。
 

若松港避難場の川艜
出典:『筑豊石炭鑛業要覧』

遠賀川水路図
出典:「川舟船頭の回顧談」

 
参考文献
高野江基太郎(1910)『筑豊石炭鑛業要覧』筑豊石炭鑛業組合事務所.
永末十四生(1954)「川舟船頭の回顧談」『郷土田川』1-2,田川郷土研究会.
筑豊石炭礦業史年表編纂委員会(1973)『筑豊石炭礦業史年表』田川郷土研究会,西日本文化協会.
赤池町史編纂委員会(1977)『赤池町史』赤池町.
金田町教育委員会(1999)『金田町誌』金田町.
 
地図
鑛山借区圖』明治18(1885)年 工部省鉱山課.
筑豊煤田地圖(筑豊炭礦誌)』明治26(1893)年製図 明治31(1898)年発行 中村近古堂.
小倉3号「後藤寺」』明治33(1900)年測量 明治36(1903)年発行 大日本帝国陸地測量部.
筑豊炭山位置略圖(筑豊石炭鑛業要覧)』明治43(1910)年 筑豊石炭鑛業組合事務所.